虚弱や喘息、偏食、アトピー等に苦しむ小学生が一定期間、療養しながら学ぶ全寮制の学校施設。私は豊島区立の学園に寄宿して、おかげで丈夫になり、生きていく自信を育ませてもらった。全国に拡げられてしかるべき教育・児童福祉政策だ。

■“石原流”を欲す権力とメディア

 だが石原都政下で、成長しても生産性のタシになりそうもない役立たずなど切り捨てる政策が加速した。某区の教育委員会は廃園撤回を求める親たちに、「お宅らの子どもには1人当たり年間1千万円もかけてきたんですよ!」と吐き捨てたという。忖度が役人の言葉遣いも変えたのだ。

 私は自分の全人格を否定された思いに囚われた。現役の児童や保護者たちはいかばかりだったか。

 石原氏の言動をフォローする取材活動は、自分の心にもあるに違いない醜さを剥き出しで見せつけられているようで、やり切れなかった。彼に近い編集者たちには幾度か、「紹介してあげるよ」と誘われ、本人の談話が欲しい立場としては乗りたい衝動にも駆られたが、そんな形で会えば、書くべきことを書けなくなる。都庁を通した公式ルートでの取材に拘ったが、叶わなかった。

 昨年の暮れ頃から、石原氏に、今度はどんな手段によっても会ってみたくなった。万が一にも慙愧(ざんき)の念らしき言葉を引き出せたとしたら、みんなにも、本人にも、私にとっても幸福だと考えたが、先に死なれてしまった。

石原慎太郎氏の「お別れの会」
石原慎太郎氏の「お別れの会」

 全盛期における石原氏の人気と没後の礼賛報道、「お別れの会」での新旧首相の弔辞などに接するたび、私は恐ろしい仮説に苛まれる。この国の権力と、それとの一体化を急ぐマスメディアが今、最も欲しているのは、石原氏のような思考回路ではないのか、と。

 彼の言動が、多数派に「歯に衣着せぬ」「慎太郎節」「石原節」などと、なんだか爽快でカッコいいものとして受け止められる世の中ならば。格差社会や監視社会はもちろん、加害の歴史の正当化も、沖縄への基地集中も、中国や北朝鮮との有事を想定した軍拡も戦時体制を築く経済安保も、さしたる抵抗もなく進んでいく。戦争が近くなる。

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