リリースするアルバムは常に話題になり、ミリオンセラーを獲得するものも多かった
リリースするアルバムは常に話題になり、ミリオンセラーを獲得するものも多かった

ユーミン”こと松任谷由実さん(68)が、1972年7月に「返事はいらない/空と海の輝きに向けて」でデビューして以来、ことしで50周年。ミュージックシーンの第一線で輝き続け、音楽界だけでなく、社会や文化にも大きな影響を与えてきた。

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「初めて会ったときは本当に驚きましたね。そのころのシンガー・ソングライターは、Tシャツにジーンズというスタイルでしたから、そういう人とは全く違ういでたちでした。当時創刊されたファッション雑誌『an・an』(70年創刊)から飛び出してきたようで、とってもファッショナブルなんです。時代の先端というより、少し行き過ぎている感じもしましたけどね。でも、話をしておもしろい人だなと思いました」

 荒井由実さん(当時)との初めての出会いについてそう話すのは、音楽評論家で尚美学園大学副学長の富澤一誠さんである。72年のことで、ユーミンは当時18歳。多摩美術大学で日本画を専攻している大学生であった。

 富澤さんは東京大学を中退して、あちこちの音楽雑誌や週刊誌に音楽評論を執筆していた。とくに吉田拓郎をはじめとし音楽業界を席巻していたフォークの神々について、音楽論だけでなく、歌を作り出す人間を描き出し、ミュージックシーンに影響を与えていた。

 そんな富澤さんに、アルファミュージックという音楽出版社の社長である村井邦彦さんが「荒井由実」を売り出したいが、何かいい方法はないかと相談を持ちかけ、キャッチコピーを考えてくれとお願いした。

 デモテープを渡された富澤さんは、その場でさっそく聴いて、衝撃を受けた。「いいですね。この子は」と思わず感想が口から出てしまった。

「当時、シンガー・ソングライターといえば五輪真弓さんでした。その前が加藤登紀子さん、森山良子さんで、自分のことを歌っていて、自己表現でした。ユーミンはぜんぜん違って、イメージの世界で物語を紡ぎ出して歌うのです。別の言い方をすれば印象派のモネやシスレーのように絵画的です。歌を聴くと風景が浮かんでくるんですね」

 と当時のフォークソングの中にはまらない大きな可能性を感じたという。

 こんな音楽を作る人はどんな人だろう。とにかく会ってみたいとすぐに富澤さんは村井さんにお願いし、先述の出会いとなった。

 キャッチコピーといってもこれまでにないセンスを持った歌手なので思案した。何かヒントはないかとなんとなく日本文学史のページを繰っていたところ、「新感覚派」という言葉を見つけた。「新感覚派」とは、横光利一、川端康成ら言語感覚の新しい作家を指した言葉。ユーミンも既成の音楽を打ち破る可能性があったので、「新感覚派ミュージック」とした。

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