横尾忠則
横尾忠則

 芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、マラソンと駅伝について。

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 マラソンと駅伝について、前から考えていたことを書いてみます。僕は高校時代からマラソンが好きだった。僕の母校は高校駅伝で何度も優勝している兵庫の西脇工業高校の前身(工業科がその後西脇工業高校になる)でもある西脇高校である。そんなわけで、マラソンや駅伝には興味があります。

 マラソンは一人の人生の一代記みたいなところがあります。人間の寿命は百歳たらずだけれど、マラソンの寿命はうんと短い。マラソンは人生の縮図のようで、42.195キロの中に人生のあらゆる喜怒哀楽がつまっているように思って見ると面白いです。それに対して駅伝は全区間を何人かの人が、タスキを受け渡しながら走ります。

 ここで僕が注目するのがタスキです。このタスキが実は大問題なのです。マラソンは一人で完結するが、駅伝は団体競技で、何人もの走者によって完結する。僕がここで言いたいことは、実は人間も団体競技をしながら生きているのです。団体競技と言っても野球やサッカーのような複数の人間で形成された競技のことではありません。

 人生は確かに一人の人間が命を全うすることです。言ってみればマラソン走者です。だけど、人間は肉体の消滅と同時に死を迎える。ところが駅伝のランナーは一区間走ったあと、次のランナーにタスキを手渡して、別の肉体がその続きを走ります。そしてまた次に、待機しているランナーにタスキを渡し、次から次へと肉体を転生しながら、最終ゴールまで、この不思議な競技は続けられます。ということは団体競技です。

 僕が言いたいのはタスキが受け渡されていく行為です。ランナーは次々と変わるけれど、変わらないのはタスキだけです。

 ランナーの肉体は次から次へと変わっていくのに、タスキだけは一本のままで、新しいタスキに変わることはありません。汗の滲(にじ)んだタスキは最後まで取り替えられることはなく、何人もの肉体の腕に通されたままランナーの肉体と密着したままです。

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横尾忠則

横尾忠則

横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。

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