稲嶺惠一元沖縄県知事(左)と、2000年、「平和の礎」を視察した小渕恵三首相
稲嶺惠一元沖縄県知事(左)と、2000年、「平和の礎」を視察した小渕恵三首相

「県民の6割が県内移設に反対でしたから、県民のためになることを考慮する必要がありました。軍民共用にすることで、北部に空港ができれば県民の財産になります。基地の固定化を避けるため15年の使用期限をつけましたが、私は国際情勢によっては延びることも了承していました。私はこれらの公約を掲げて知事選に当選したのですから、県民の理解も得られていた。政府も99年12月の閣議決定で条件を認めたのだから、何も問題はなかったのです」

 だが、小泉純一郎氏が首相だった06年、合意は一方的に破棄され、日米は「軍民共用」「15年の使用期限」などの条件を抜いた現計画で合意した。建設場所も2.2キロ沖合の環礁を埋め立てる案から、現行の沿岸部を埋め立て、1800メートルのV字滑走路をつくる計画に変更された。稲嶺氏が眉をひそめる。

「小泉さんが首相になってからおかしくなった。私たちと、小渕恵三さんはじめ当時の政府が苦労して決めたことを反故にされて、本当にショックでした。県と使用期限など基地使用協定を結ばない、いまのやり方はデタラメです。私は在任中、観光と情報産業に力を入れ、現在、観光客数が1千万人を超えるなど成果が出た。けれども、基地問題だけは努力を重ねても少しも進まない。努力が一つも報われないのはつらい。毎晩、一人で酒を飲んで悩んでいました」

 稲嶺氏には痛切な戦争体験がある。43年、バンコク勤務だった父・稲嶺一郎氏(元参院議員)と引き揚げるために乗り込んだ船が、米潜水艦の魚雷攻撃に遭い、沈没。救命ボートで漂流しているところを助けられた。

「その直後、父が病気になったため私たちは帰国を断念しました。ところが、他の人たちは別の船で日本に向かい、また沈められたのです。戦後、沖縄に帰ると、祖母がね、地上戦の中、やんばるの山の中を逃げ回って助かったんだけど、すっかり弱り切って歩けなくなっていました。その姿が心の中から消えません」

 日本復帰には微妙な思いがある。復帰を目前にした沖縄では国政参加選挙という形で、70年に衆院選と参院選が行われた。

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