ライター・温水ゆかりさんが選んだ「今週の一冊」。今回は『奇跡』(林真理子、講談社/1760円・税込み)。

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 情熱を意味するパッションには受難という意味もあると教わったのは、ある海外の作家からだった。情熱と受難はコインの裏表ということだろうか。それとも激情と激痛の見分けはつかないということだろうか。そんなことを思い出したのも、本書の帯に「林真理子が描かずにはいられなかった愛の“奇跡の物語”」とあったからだ。

 実在の男女に材を取ったノンフィクション・ノベル、華麗な恋愛譚である。男性は世界的なカメラマンの田原桂一氏、女性は当時梨園の妻だった博子氏。本書は著者の手で夾雑物を排され、芯だけを削りだした大人の寓話に仕上げられている。実在の人物を敬称なしで書くのは居心地が悪い。寓話に倣い、この先何カ所かは男と女という呼称で書き進めようと思う。

 ふたりは男がプロデュースした京都の教会で真に出会った。6年前に宴席に同席しただけの淡い縁なのに、この日女を見るなり男は「博子ちゃん」と驚きの声を出す。女もすぐに男を思い出す。パリを拠点に国内外の賞を受賞しているカメラマン、豊かな髪をたくわえた身長180センチ以上の美丈夫。このとき男、52歳。3年前に男児をさずかって大名跡の舅を歓喜させた女、33歳。

 互いの気持ちが決壊するのは早かった。偶然二人きりのディナーになった夜、女が受けた狂おしいほどの深く長いキス、パリに戻る前にもう一度会いたいとホテルを指定され、女はためらわず男の胸に飛びこむ。

 博子氏はその時々の感情を日付なしで日記に書いていた。著者はそれを引用しながら、この愛の物語を進めていく。女は「彼に触れる時間がないとおかしくなってしまう」と書き、男は手のひらに吸い付くような女の肌を愛した。男と女は肉体的にも強く惹かれあった。

 青山にダミーも含めて2軒借りたマンション、代々木上原のプール付き邸宅、男が東京に本拠地を移してからは仙石原に買った別荘が、新たな3人家族の住まいとなる。どうやって別居が許されたのか、本書は明らかにしていない。

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