下重暁子・作家
下重暁子・作家

 人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、ロシア人について。

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 五十年ほど前の話である。まだソビエト連邦だったモスクワの街角で私はタクシーを待っていた。やっとタクシー乗り場にやってきたのは、黒いヴォルガ。すでに乗っている客がいる。それでも運転手は乗れという。

 その頃は相乗りが当たり前だった。だが乗ってみて驚いた。同乗していたのは当時有名だったイスラエルのダヤン将軍のような斜めに黒い眼帯をした中年男性で、私をホテルに送ったあと、トラ(酔っぱらい)の収容所に送られるという。なんとも雑だけれど、ある種おおらかなお国柄を象徴している。

 まだ社会主義共和国で、お上はいばっていて、街を勲章をつけた人たちが歩いていたが、一般の人々はみな親切で気さくであり、日本から来た私はいやな思いをしたことがなかった。

 それから三十年近く経って、ロシア経由でモンゴルへ行き、途中バイカル湖のあたりで一日を過ごした。初夏のバイカル湖で船に乗ったが、決して過剰ではないサービスが快く、私たちはロシア民謡を次々に歌って楽しんだ。

 今も多くのロシア人は同じだと思う。その人たちがひとたび戦となると凄惨な情景をもたらす。

 なぜだ。この戦争に反対し、プーチンをはじめとするロシア政府のプロパガンダ放送の嘘を見抜いている人たちも多くいるが、大半のロシア人はそれを信じ、プーチン支持の善男善女が数多くいる。彼らは何も知らされず、政府を信じる。

 実は素朴で人がいいことは結果として悪になる場合が多いのだ。戦時中の日本がそうだった。素朴で正直で疑い深くない人々がみな国の言うことを信じた。学校の先生も日本の軍隊の行動を支持し、正しいと教えた。

 今のロシアもそうだろう。結果としてウクライナ侵攻を支持し加担しているのだ。

 朝日新聞にロシア反体制派知識人の手記として、「プーチンは、ロシアをも殺したのです」とあった。一人の独裁者(大きな国になるほど独裁者が出やすい)の誤った行動がそのプロパガンダを信じた人々をだまし、結果として、ウクライナだけではなく、ロシアの人々をも殺したことになるのだ。

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下重暁子

下重暁子

下重暁子(しもじゅう・あきこ)/作家。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。この連載に加筆した『死は最後で最大のときめき』(朝日新書)が発売中

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