横尾忠則
横尾忠則

 芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、絵を描くことについて。

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「描くのに飽きた!」というのは僕の口ぐせですが、もうひとつの口ぐせは「嫌々描く」ということです。描くことに飽きたんだから、当然嫌々描くことになりますよね。3歳から今日まで絵ばかり描いていたらそりゃ飽きるし嫌になります。飽きっぽい性格の僕にしたらよく82年間も続いていると感心するのは、これしかできないからだと思いますね。もう習慣というかクセですね。よくいつから画家になったのかと聞かれますが、やっぱり絵を描き始めた3歳から画家だったと思いますよ。

 ですが、最近思うんですが、飽きたからこそ、また嫌々描いているからこそ、今まで絵が描けたのかも知れません。かつて絵が面白くて愉しいなんて一度も思ったことはありませんね。何んだか面倒臭いことをしているなあ、といつも思いながら描いていました。それはきっと、いい絵を描こうという煩悩に振り廻されていたので本当の愉しみを味わうことができなかったんだと思います。もっといい加減に描いていたら、もしかしたら愉しかったかも知れませんが。

 そして今、80代の半ばになって、やっと、絵の描ける境地になったかなと思っています。その境地というのは、悟りを得たというのではなく、「嫌々描くことに飽きた」境地です。別の言い方をすれば、「タカが絵じゃないか、そんなに一生懸命になることもないぜ」という内なる声に従う気になったからです。そうすると制約が失くなります。人のためでも世のためでも、まして自分のためでもない、この前、書きましたよね。インスピレーションを与えてくれた源泉のために描くと。別の言い方をすると画家は神社に舞いを奉納する巫女(みこ)みたいなものです。

 でも一番いいのは絵も描かない、何もしないことだと思います。菜根譚では「世の中は、出来るなら何もしないほうが人間は幸せである。ひとつのことを起こせば必ずひとつの害がともなう」と語っています。無為でいることほど有為かも知れませんね。僕は絵を描く時、いつも無為になるよう心がけています。余計なことを考えないことです。絵を描くのは頭ではなく肉体の思うままにまかせるのが一番いいと思っています。でないと考えに左右されると迷いを生じさせるだけです。だから絵を描く時は頭の中を空っぽにするというのはそのためです。

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横尾忠則

横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。

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