京都・寂聴で法話をする寂聴さん(2015年4月)
京都・寂聴で法話をする寂聴さん(2015年4月)

 河野多惠子さんと彼女は長い親友でした。河野さんはよくいってました。

「わたし、瀬戸内さんより一日、いや半日でいいからとにかく、後で死にたい」。もし先に死んだとしたら、「河野さんの思い出話」か何かで、どういう「盛り方」で書かれるかわからない──。

 河野さんは真面目な人でした。何十年の親友だから、見せたくない面をお互いに見て来ている。そういうことは、口にすべきではないとして控えるのが親友というものであるけれど、瀬戸内さんにかかっては逆に盛られて面白おかしく語られ、それが流布されてはたまらない。河野さんはそう思ったのでしょう。

「あれはもう、颱風とか地震とか、止めようのない自然現象やと思うしかないわねえ」

 私はそういい、大笑いに笑ったものでしたが、河野さんは忘れた頃にまた同じ心配を口にするのでした。瀬戸内さんはもとより、大の親友がそんなに自分のために胸を痛めているとは知らず、河野さんをいつも上機嫌に愛し信じていたのだと思います。

 瀬戸内さんの無邪気さが私はだんだん好きになりました。瀬戸内さんの波瀾の一生を支え成功させたのは無邪気さではないかしらん。瀬戸内さんがテレビの瀬戸内さんの日常を紹介する番組で堂々と肉を焼いて食べたりお酒のお代りを頼んだりしている様子を見て私はびっくりしたけれど、すぐに瀬戸内さんはこういう境地に来たのかも、と思うことにしました。大悟の人なのか、ただの無邪気なボンさんなのか、私にはわかりません。

 かつては私の周りには父母兄姉イトコハトコ、親類の誰彼や沢山の友人知己が囲んでいました。そのうち戦争が起きて、誰もが大きな喪失を味わいましたが、それでもまだ私の周りにはいろいろな人がいました。前方には人生の先輩、右と左は沢山の友人、後ろには増える一方の後輩が列をなしている。賑やかなものでした。それが一人また一人と欠け始めたのが七十代になった頃からでしょうか。かつては先輩や左右の友人らが冥途からの風を遮りまぎらわせてくれていたのですが、それがいつかスースーと通りよくなってきている。九十代に入ると、私の前にいるのは瀬戸内寂聴ただ一人という寥々たる姿になりました。

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