都倉俊一
都倉俊一  (撮影/写真部・戸嶋日菜乃)
 著名な作曲家であり、現文化庁長官の都倉俊一さん。自身の音楽マインドからピンク・レディー命名のエピソードまで、作家・林真理子さんとの対談でたっぷり語ってくれました。

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前編/都倉俊一文化庁長官「日本は宣伝力ない。狭い世界でゴチョゴチョやってる」】より続く

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林:ところで、都倉さんは外交官のお坊ちゃまで、子どものころドイツのギジナジウム? ギムジ……。

都倉:ギムナジウム。

林:すいません(笑)。ギムナジウムって、少女漫画の世界だけかと思ってましたけど、そこに行ってらしたんですよね。

都倉:ドイツの中等教育ですね。日本は6・3・3制で12年で終わりますけど、向こうは13年制で、アビトゥアという資格をとるとどこの大学でも行けるんです。ただ、僕はそこまでドイツでやるつもりはなくて、日本に帰ってきて日本の大学に行きましたけど。

林:あちらではアメリカンスクールに行ってたんですか。

都倉:子どものときはアメリカンスクールに行ってました。

林:何カ国語できるんですか。

都倉:英独仏ですね。フランス語はあまり得意ではないですけど。

林:ヨーロッパでは、オペラハウスとかにもいらしたんでしょう?

都倉:高校生のときは西ベルリンにいたんです。1964年、東京オリンピックの年に行って、66年までいました。ベルリンって暗い街だったんですけど、当時はカラヤンの大全盛ですよ。

林:ああ、カラヤンの。

都倉:日本に来ると、カラヤンのチケットって1枚何万円とかするでしょう。ドイツは文化行事に対して国が補助をするんですよ。特に学生はケタ違いに恩恵を受けています。もちろんカラヤンとベルリン・フィルのチケットは宝くじみたいなものだけど、僕、その学生切符が当たっちゃいましてね。初めてカラヤンのベルリン・フィルを見たのが16歳ぐらいのときなんです。今でも覚えてますけど、ドボルザークの「新世界」でした。

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