現在のパッケージ(提供)
現在のパッケージ(提供)

 定番の棒付きアイス「ガリガリ君」が今年、発売から40周年を迎えた。販売本数はいまや年4億本を超え、“国民食”と言っていいほど定着した。だが普及するまでには、思わぬ苦労もあった。不惑を迎えた人気アイスの歴史を振り返る。

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 ガリガリ君が生まれたのは、歌手・寺尾聰(あきら)が歌う「ルビーの指環」が日本レコード大賞を受賞した1981年のこと。アイス専業メーカーの赤城(あかぎ)乳業(埼玉県深谷市)が「子どもが遊びながら片手で食べられるかき氷ができないか」と開発に取り組んだのが原点だ。

 当時は、64年発売の大ヒット商品、カップかき氷「赤城しぐれ」の売り上げが落ち込んでいた。第2次石油危機への対応を誤ったからだ。危機によるコスト高を吸収するため値上げに踏み切ったものの、ほかのメーカーは価格をすえ置き、客離れを招いた。

 その結果「会社もちょっと傾きかけた」(広報担当の広瀬裕美さん)。ガリガリ君は、会社の起死回生を図る狙いもあった。

 第1弾をソーダ味にしたのは、炭酸飲料が当時の子どもたちに人気だったから。狙いは当たり、定番の味として浸透する。ソーダといえば水色をイメージするのも、ガリガリ君の功績が大きい。青空や海を念頭に決めたのだという。

発売当初のパッケージ。学生服を着ている(提供)
発売当初のパッケージ。学生服を着ている(提供)

 名前は「ガリガリ」という氷をかじる音が由来。当時専務だった井上秀樹・現会長が「『ガリガリ』だけじゃさみしいから」と「君」をつけた。同時に「『君』をつけたからには、それに見合ったキャラクターも必要だ」というわけで、「わんぱくなガキ大将」のイメージに行き着く。絵が得意な社員がイラストを考案した。

 その後、キャラとしての“成長”の過程は必ずしも順風満帆ではなかった。今の設定は「小学生」だが、当初は「中学3年生」。服装も学生服だ。それが86年からランニングシャツ姿になり、91年からは半そでやTシャツ姿も混在するように。さらに大きく変わったのが2000年。前出の広瀬さんが解説する。

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池田正史

池田正史

主に身のまわりのお金の問題について取材しています。普段暮らしていてつい見過ごしがちな問題を見つけられるように勉強中です。その地方特有の経済や産業にも関心があります。1975年、茨城県生まれ。慶応大学卒。信託銀行退職後、環境や途上国支援の業界紙、週刊エコノミスト編集部、月刊ニュースがわかる編集室、週刊朝日編集部などを経て現職。

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