帯津良一(おびつ・りょういち)/帯津三敬病院名誉院長
帯津良一(おびつ・りょういち)/帯津三敬病院名誉院長
※写真はイメージです (GettyImages)
※写真はイメージです (GettyImages)

 西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱する帯津良一(おびつ・りょういち)氏。老化に身を任せながら、よりよく老いる「ナイス・エイジング」を説く。今回は「戦友の死」。

*  *  *

【追悼】ポイント
(1)40年以上にわたる戦友中の戦友が最近亡くなった
(2)彼女がいたからホリスティック医学への道が開けた
(3)彼女らしいかたちで虚空に旅立っていった気がする

 40年以上にわたって、ともに理想のホリスティック医学を追い求めてきた“戦友”中の戦友が最近、亡くなりました。84歳でした。

 彼女は1982年に、中西医結合によるがん治療を旗印にした「帯津三敬病院」を設立したときから、看護師長として、私を支えてくれました。しかし、79歳のとき、体力の低下を理由に自ら戦列を離れたのです。そして、その直後、生前供養を行いました。いつ死んでもいいように、準備をしておきたかったのでしょう。そのときに、死後のことは事細かに決めてしまったのです。

 その後は、年金暮らしといったところなのですが、車の運転が上手だったので、私の“足”として引き続き世話になりました。生来の気前の良さから、私を含めた友人たちにお金を貸していたので、その返済金でうるおったりで、明るく過ごしていたものです。

 ところが、3年ほど前に変形性股関節症の手術を受けた頃から、下半身の衰えが急速に進んでしまったのです。得意だった車の運転もままならなくなり、外に出かけることが難しくなったのです。それに伴い、精神的にも落ち込んでしまい、全身状態が悪化して、ついに幽明界を異にすることになってしまったのです。

 彼女は都立駒込病院の同僚でした。新しい病院をつくりたいから手伝って欲しいと申し出ると、即座に応じてくれたのです。そのために払った犠牲は決して小さなものではなかったはずです。地方公務員の恩恵を放棄した上に、永年住みなれた東京の家を売って、これから余生を楽しもうとしていた父親ともども、川越市に転居してきてくれたのです。そしてその後の彼女の働きぶりは、とても書きつくせるものではありません。彼女なしには、今のように帯津三敬病院を発展させることはできなかったし、ホリスティック医学への道を切り開くこともできませんでした。そして何よりも、彼女の素晴らしさを知っているのは患者さんたちです。患者さんにしっかり寄り添うことができた彼女は、患者さんたちに心から慕われました。

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帯津良一

帯津良一

帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「貝原益軒 養生訓 最後まで生きる極意」(朝日新聞出版)など著書多数。本誌連載をまとめた「ボケないヒント」(祥伝社黄金文庫)が発売中

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