※写真はイメージです (GettyImages)
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 文芸評論家の細谷正充さんが選んだ「今週の一冊」。今回は『吉宗の星 「小さな幸せが欲しかった将軍』(谷津矢車著、実業之日本社 1870円・税込み)の書評を送る。

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 徳川八代将軍吉宗といえば、享保の改革をはじめとする各種政策により、幕府の再建を図った名君として知られている。もともとは紀州藩の部屋住みの三男であり、将軍どころか藩主になることすらあり得なかった。しかし、父と2人の兄が死んだことで、紀州藩主となる。3人の死は吉宗の毒殺という噂もあり、それを採用したフィクションでは、冷酷非情の人として描かれることが多い。本書も、その毒殺説を使用。だが作者が曲者の谷津矢車だ。今までにない徳川吉宗の物語を創り上げているのである。

 徳川新之助(後の吉宗)は、紀州藩主・徳川光貞の三男でありながら、淋しい部屋住みの日々を過ごしていた。母親の紋の身分が低いからだ。味方といえるのは、学問の師の高僧・鉄海と、一緒に育った乳兄弟で唯一の家臣の星野伊織だけだ。五代将軍綱吉から下賜され、三万石の葛野(かずらの)藩主になっても状況は変わらない。ただ願うのは、いつか母と一緒に暮らすことであった。

 そんな新之助のために伊織が暗躍。毒による暗殺により、新之助を紀州藩主の座に押し上げる。それでもまだ、母を世の中のすべてから守るためには力が足りない。名を吉宗とし、さらなる地位を求めて、江戸で権謀術数を繰り広げるのだった。

 その権謀術数に、史実を絡ませているのが、本書の読みどころになっている。一例を挙げよう。将軍の座を狙う吉宗は、大奥に楔を打ち込み、併せて幕閣の権力者の力を削ぐ。

 そのために利用したのが、大奥御年寄の江島一行の門限破りである。普段なら黙認される、ささいな件に火を付け、大問題に発展させたのだ。歴史時代小説でお馴染みの「絵島騒動」を、このような形で表現した、作者の手腕が素晴らしい。物語の後半にも、驚くべき権謀術数があるのだが、それは読んでのお楽しみ。海外の謀略小説に匹敵する魅力が横溢しているのである。

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