田村優子(たむら・ゆうこ)/福島県生まれ。東京工芸大学卒業後、フリーのスタイリストとして広告・雑誌などの仕事に携わる。現在は東京都内の名画座でアルバイト勤務しながら、本宮映画劇場3代目として修業中。
田村優子(たむら・ゆうこ)/福島県生まれ。東京工芸大学卒業後、フリーのスタイリストとして広告・雑誌などの仕事に携わる。現在は東京都内の名画座でアルバイト勤務しながら、本宮映画劇場3代目として修業中。

「子どもの頃から映画館が遊び場でした」と話すのは、『場末のシネマパラダイス本宮映画劇場』(筑摩書房、1980円・税込み)を刊行した田村優子さん。

 優子さんの故郷・福島県本宮市にある「本宮映画劇場」は、1914(大正3)年に劇場として建てられ、終戦後に映画専門となる。父の田村修司さんが2代目館主となって以降、さまざまな邦画・洋画を上映するが、1963年に休館する。

「父はサラリーマンをしながら、映画館を維持してきました。いつか復活させたいという気持ちがあったのでしょう。日曜には、父と一緒にここで過ごしました。映画の予告編やアニメの一部分を上映してくれることもあって、楽しかったです」

 夏休みなどに上映会を行うこともあった。ピンク映画のもぎり(チケット販売)をする母を手伝ったこともあるというが、客は困惑しただろう。

 本書には、同館に残された映画のポスターやチラシ、フィルム、映写機など、映画関係のモノの写真が200点以上掲載されている。すべて優子さんが撮ったものだ。

「父は映画関係のモノはすべて取っています。稼働するカーボン式の映写機があるのは、全国でうちだけです。館内のあちこちから発見したモノを見ながら、父に昔のことを聞いていきました」

 父の話から映し出されるのは、地方の映画館の実態だ。1950年代は日本映画の黄金期と呼ばれたが、本宮映画劇場では2~3日で上映する作品を変えている。

「小さな町なので、お客さんも少ないんです。オードリー・ヘプバーンの『ローマの休日』でさえ、客が入らずに1日で上映終了しています(笑)」

 契約する映画会社も、東宝、松竹、大映と変わる。どの会社も本宮映画劇場でかけている時期は、パッとしなかったという。

「うちはヒット作と大スターに恵まれない映画館だったんです」

 それだけに、映画館を続ける努力も半端なかった。映画の合間にストリップや歌謡ショーを実演し、学校や温泉旅館での移動上映を行う。

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