萩尾の作品を年代順に読んでいけば、誰でも、ある時期から描線が固くなったことに気づく。のびやかで丸っこい竹宮と似た描線が、ぎごちないものになってしまう。それはまったくこの呪縛のためだったのだろうかと驚きを覚える。

 私の高校生から大学生の時代は、萩尾や竹宮、山岸凉子、大島弓子らの「少女漫画家」が神のように崇められ始めた時代で、私は大学1年の学園祭で、萩尾が漫画化したコクトーの「恐るべき子供たち」を劇化して演出したが、これは同性愛者コクトーならではの作品で私にはよく分からなかった。それから今日まで、現代の知識人は少年愛や同性愛が分からなければダメだという同調圧力を私は感じてきた。中川の著書は竹宮と萩尾が「革命」を起こしたと書いており、これも私には一つの圧力だった。

 だから当事者のかたわれたる萩尾自身が、そんな革命は竹宮と増山が考えていただけだと言い、少年愛になど関心がなかったと言うことは、私には長年の呪縛からの解放のように感じられた。

 しかし萩尾は「残酷な神が支配する」について本書では何も言っていない。やはりあれは少年への大人によるレイプすら美化してしまった竹宮への批判だったのだろう。その点では、竹宮を祭り上げてきた漫画評論家たちが、改めて批判されなければならないだろう。竹宮の自伝出版を発端として、萩尾がこの件を明らかにしてくれたことは、漫画史のみならず、思想史的にすら重要なことだったと、私は感謝の念すら覚えるのである。

週刊朝日  2021年7月23日号