即身仏が次第に死に近づいていくように、老人もそのように死を迎えるのが一番理想的です。心身共に脱落して、ハイ完成です。意欲のある間は人間は完成しません。座禅をするとか滝行のような修行をしなくても人間は寿命を生き切れば自然に悟性を迎えて、うまく成仏できるようになっているはずです。そのためには若い内にうんと意欲を吐き出し切って、老齢と共に空っぽになるように人間はもともと作られているように思います。年を取ってまだギタギタ燃えるような意欲の人は悟れないままあちらの世界に行きます。

 肉体の衰退が上手に意欲をコントロールしてくれるので、自然のなりゆきにまかせておけばいつの間にか意欲も消滅して、カルマも知らぬうちに解脱してうまい具合に死ねるのです。ついセトウチさんの仏教界に足を踏み入れて越境行為をしてしまったので、「頭(ず)が高い!」と叱られそうです。

 まあ、そんなわけで意欲も好奇心も少しずつなくなって、僕の絵も若い人には実に頼りない絵に見えるでしょうね。そんな僕の絵を見て、若い人は奮起して意欲という大志を抱いてがんばって下さい。

 合掌。

■瀬戸内寂聴「『意欲』なんて感じたことはありません」

「意欲」についての考察は、私には不向きです。なぜなら、私は、わざわざ自分の躰の中から「意欲」をつかみだしたことも、そうっと網ですくいだして、現実の生活に利用した覚えも一切ないからです。

 でも私は人から、「いつも意欲に満ち溢れているようにお元気ですね」と言われます。体調が老衰の一途をたどる以前は、我ながら、私はいつも人より元気に見え、常に張り切っていたものです。「いつ逢っても、意欲満々に見え、気持がいいですね」とよく言われたものです。でも、ヨコオさんのおっしゃるように、「意欲」なんて、自分の体内に湧き出てくる感覚を、一度も感じたことはありません。

 ただし、いざ原稿用紙に向かって、一字一字マス目の中に、万年筆の字を埋め始めると、自然に、泉の水が湧き出るように、書きたいものが噴き上がってきて、ペンが走り出すのです。この「老親友の文通」も、前もって、今日は何を書こうなど準備したことはなく、原稿用紙に向かいペンを握って、太郎センセと、ヨコオさんの顔を並べて思い描くと、文章が自然に湧いてくるのです。そこは熱い意欲の影など感じたことはありません。実に自然に文章が、それこそ湧き出るのです。

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