林:どういう女の人が来てたんですか。モデルさんとか?

田原:CAさんとかね。ボディコンの。

林:そりゃあバブルのときに「トシちゃん」だったんだから、日本でいちばんいい思いをしてたんでしょうね(笑)。

田原:いちばんいい思いをしたゆえに、バブルに溺れてしまったという。ハハハハハ。

林:あのころは歌番組がいっぱいありましたよね。

田原:そう。「歌のトップテン」「ザ・ベストテン」「夜のヒットスタジオ」、80年代半ばには「ミュージックステーション」が始まって、「スーパージョッキー」もあってね。「ザ・ベストテン」なんか、視聴率42%くらいとっちゃうんだからね。僕が歌ったあと(「悲しみ2(TOO)ヤング」)、聖子ちゃんに白いパラソルを渡したときが「ザ・ベストテン」の最高視聴率だったんだって。

林:あ、そうなんだ。

田原:「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングも、僕のときが最高視聴率。その記録が破られずに番組が終わった。

林:すごいですね。

田原:けっこうな記録持ってるんだよね。アハハハハ。そのあとは苦しい時期が長かったけど、コツコツ長いことやってれば、いいこともあるんですよ。コンサートは1年も穴開けたことないし、シングルも毎年毎年出してきたし、支えてくれるファンの方がずっとそばにいてくれたからこそ、今があるということですね。

林:いま、コロナでどうですか、コンサートとか。

田原:エンタメはこの1年、ほんとに影響受けてますね。僕ら、お客さんがいて成立する仕事なんで、苦しいですよ。(突然大声で)仕事ください! 僕にウーバーイーツやらせてください! 真っ赤なポルシェで運びますから。高いですよ! ハハハハハ。

林:今でもお父さまの命日のときには甲府に帰るんですって?

田原:命日の付近には帰ります。「あずさ」(特急)じゃなくて、ポルシェで(笑)。

林:お父さま、小学校の先生だったんでしょう?

田原:はい。僕は生徒役でデビューしたけど、10年後に今度は先生役をやらせてもらって、これも縁なのかなと思いましたね。教壇に立ったとき、親父もこんな景色を見てたのかなって。親父、37歳ぐらいで逝っちゃったんです。

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