原武史さん (c)朝日新聞社
原武史さん (c)朝日新聞社

 かつて、日本では外国人の存在は珍しかった。そんな時代に日本に訪れた外国人から見た日本とは。政治学者・原武史さんが外国人の日記から読み解く。

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 コロナ禍によって激変したものの一つに、インバウンド需要の減少がある。だが考えてみれば、外国人観光客が急増したのはせいぜいこの10年ほどにすぎない。それ以前は、「外人」という排他的なニュアンスをもった日本語に象徴されるように、町中で外国人を見かけるのが珍しい時代のほうがはるかに長かった。

 これまで日本を訪れた外国人の多くは、この極東の島国に滞在した貴重な体験を日記に残している。ここではそれらのなかから、江戸時代、明治時代、そして敗戦直後に訪日した3人の外国人(うち2人は男性、1人は女性)の日記を紹介しよう。

 ケンペル『江戸参府旅行日記』(斎藤信訳、平凡社東洋文庫)は元禄3(1690)年から約2年間、オランダ商館付の医師として長崎の出島に滞在し、元禄4年と5年に続けて江戸に参府して将軍徳川綱吉に謁見したドイツ人の日記である。

 ケンペルは、江戸を中心とする街道網が全国的に確立されていることに目を見はった。「日本国内の仕来(しきた)りに従っていうと、上りの、すなわち都(Miaco)に向って旅する者は道の左側を、下りの、つまり都から遠くへ向う者は、右側を歩かねばならないのであって、こうした習慣は定着して規則となるに至った。これらの街道には、旅行者に進み具合がわかるように里程を示す標柱があって距離が書いてある」。だからこそ、具体的な数字を通して日に日に江戸に近づきつつあると実感できたわけだ。

 しかし江戸城の本丸御殿に登城しても、肝心の将軍の姿はよく見えなかった。「その姿がよく見られないのは、十分な光がそこまで届かなかったし、また謁見があまりに速く行なわれ、われわれは頭を下げたまま伺候し、自分の顔をあげて将軍を見ることが許されぬまま、再び引下がらなければならないからである」。姿を見せないことで将軍の権力が演出される。ケンペルにとって、この演出は不可解だったに違いない。

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