そうか、やはり間違えたのだ。よかった。三階に上がると目の前に我が家の表札があった。一棟のマンションに二カ所の入口があり、一つ間違えると全く違う家の前に出てしまう。

 といえば単純な話のようだが、不気味なのは、あの泥人形と表札をくりぬいた跡は一体、何だったのだろう。ドアは共用部分だから、クリスマスや正月飾り以外、勝手に装飾してはいけないはず。ましてや勝手に表札をくりぬくなど、許されないはずだ。

 私が目にしたものは実在したのだろうか。その日は我慢して、次の日の昼間一人で行ってみた。

 すると、全く同じ風景が広がったのだ。誰かが転居の途中? と考えてみたが、腑に落ちない。

 私が間違った日は薄暗い春の夕暮れ時、いわゆる逢魔時と呼ばれる時間帯だ。この時刻、昼から夜に移る時間帯は、様々な魔物がばっこする。事故も起こりやすい。春宵のいたずらだと思うことにした。

週刊朝日  2021年4月30日号

■下重暁子(しもじゅう・あきこ)/作家。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。主な著書に『家族という病』『極上の孤独』『年齢は捨てなさい』ほか多数

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下重暁子

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下重暁子(しもじゅう・あきこ)/作家。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。この連載に加筆した『死は最後で最大のときめき』(朝日新書)が発売中

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