「心を語るというのは結構むずかしい。僕らがふだん『これが自分の心だ』と考えていることは、僕らの心のほんの一部に過ぎないから。心という池から汲み上げられるのはバケツ一杯の水のようなものです。僕らの心を本当に動かすのは残された水。じゃあ、心という未知の領域をどうやって探りあてればいいのか、その役割を果たしてくれるものの一つが物語です」

 春樹さんの言葉に学生が身を乗り出していく。

「小説とは直接的には社会の役にはたたない。即効薬にはならない。でも、小説という働きを抜きにしては、社会は健やかに前に進んでいけない。社会にも心があるから。意識や論理だけでは掬いきれないものを掬(すく)いとっていくのが物語の役目です。小説家という職業は人の手から手へまるで松明(たいまつ)のように受け継がれてきました。みなさんの中にその松明を受け継いでくれる人がいたら、とても嬉しい」

 意識や心の奥深い所にあるものを自分の言葉で探り当て、春樹さんは読者の心を動かしてきた。

 サイモン&ガーファンクルに『四月になれば彼女は』という曲があるけれど、式が終わった後、喫茶店で早稲田の女子学生が「村上春樹さん登場って、親に自慢できるよね」と弾けるように笑っていた。

延江浩(のぶえ・ひろし)/1958年、東京都生まれ。慶大卒。TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー。国文学研究資料館・文化庁共催「ないじぇる芸術共創ラボ」委員。小説現代新人賞、ABU(アジア太平洋放送連合)賞ドキュメンタリー部門グランプリ、日本放送文化大賞グランプリ、ギャラクシー大賞など受賞

週刊朝日  2021年4月23日号

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延江浩

延江浩

延江浩(のぶえ・ひろし)/1958年、東京都生まれ。慶大卒。TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー、作家。小説現代新人賞、アジア太平洋放送連合賞ドキュメンタリー部門グランプリ、日本放送文化大賞グランプリ、ギャラクシー大賞、放送文化基金最優秀賞、毎日芸術賞など受賞。新刊「J」(幻冬舎)が好評発売中

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