僕の場合はいつもいうように特定の主題がありません。主題は何んだっていいのです。何を描くかではなく、如何(いか)に描くか。つまり絵をフォルムとして考えています。世の中に存在する森羅万象は全てフォルムでしょ。人間自身もフォルムでできています。人と人との付き合いもフォルムと考えれば実にシンプルです。それが複雑になるのは感情が入り込むからです。だから感情もフォルムにしてしまえばいいんじゃないでしょうか。

 生が複雑なのはフォルムではなく感情だからでしょ。そういう意味では死はフォルムです。だから死は単純で、いいと思います。もっというと考えなくっていいということです。考えるから感情的になって生にしがみつきたくなって、ますます複雑になるんじゃないですかね。描きたくないというのは究極のフォルムというか、フォルムさえ否定するフォルムです。フォルムで生きるということは単純に生きるということです。

 ですから、何を描くかでも、如何に描くかでもなく、それらを超越して如何に生きるかということになります。ゴーガンの大作の題名に「われわれはどこから来たか、われわれとは何か、われわれはどこへ行くか」。結局この言葉につきると思います。

 頭を空っぽにして寝ます。

■瀬戸内寂聴「未来の小説 閑かに想えば落ち着きます」

 ヨコオさん

 今日、寂庵は、朝から雨に包まれています。

 まさに春雨です。

 想(おも)い出はみなやさしくて春の雨

 ふっと、口をついてきた句です。寂庵はまだ梅が満開で、座敷には、お雛様(ひなさま)が壁一杯に並んでいます。例年の今頃は、お詣(まい)りの人々が次から次に訪れて、お雛様の前で、お菓子を食べながら、口々にお喋(しゃべ)りをしているのに、コロナのせいで、今年の春は訪れる人がなく、ひっそりとしています。

 閑かでいいなど言っていたのは、とうの昔のことで、こうまで人の訪れがないと、やはり淋(さび)しくて、身も心も持て余します。

 毎年の寂庵の春の行事のお釈迦さまの誕生日のお祭りも、今年は、庵の者たちで、お釈迦さまの像に甘茶の雨をかけてお祝いすることでしょう。

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