独身の阿部さんは、両親に決意を打ち明けた。

「ふたりとも体調が思わしくない時期で、私のやりたいようにと後押ししてくれました」

 建物ができれば鰻屋を再開できるというわけではない。命の次に大事なタレを失ったからだ。

「戦争中、父が疎開させてまで守ったタレです。どうしようかと思ったら、母が自分で食べるときのために取っておいたのが、少し残っていたんです。それに、東京に嫁いだ叔母が、父から鰻を送られるたびにタレを少しずつ残して保管していたそうで、それをもとに、ある方のキッチンをお借りしてタレを育てました」

 早くも12年7月に、店は再建を果たした。まだほとんどの飲食店が再開していなかった時期だけに、店は繁盛した。

「従業員の募集をかけても、まだ働きに出るどころではないという人が多く、応募がない。人手が足りず、朝から夜の11時まで働きづめでした」

 店は復活したが、街の復興は半ばだ。震災前に比べ人口が2万人ほど減っている。五輪を機に、石巻港に大型客船を誘致し知名度を上げ、インバウンド需要を高めようという計画もあったが……。

 外食自粛が続き飲食店の営業は厳しいが、政府からの助成金は出ない。阿部さんは動いた。

「450店にアンケートを取り、市に要望書を出しました。おかげで市独自の助成金が出ることに。コロナが落ち着いたら、少しずつ観光客も来てくれるでしょう。元気な石巻を楽しんでいただくため、きちんとおもてなしをしたいと思います」

 被災者たちは10年間、走り続けてきた。(本誌・菊地武顕)

週刊朝日  2021年3月19日号