先輩の言葉で我に返ったという(提供/日本航空)
先輩の言葉で我に返ったという(提供/日本航空)

 2011年3月11日に大津波に飲み込まれた仙台空港。グランドスタッフ(地上職員)として働いていたJALスカイの福吉あゆみさんが、当時を回想した。

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 入社3年目で初めて「お医者さま、看護師の方はいらっしゃいませんか」と呼びかけをしました。

 津波警報が出ているという無線連絡が入ったので、お客さまを3階に誘導しました。近くに特別養護老人ホームがあり、そこの方々も空港に避難して来ました。皆さん、車椅子です。停電でエレベーターもエスカレーターも使えないので、背負って階段を上りました。

 現実とは思えないような津波が押し寄せてくる様子を目の当たりにして、私はパニックになってしまいました。すると先輩が「制服を着ている私たちが取り乱してはいけない。切り替えなさい」と言ったのです。その言葉で我に返りました。

 次に行ったことは、安心して休める場所の確保です。お客さまや地元の方の多くは、絨毯の敷いてある出発ロビーやラウンジで、私たちは硬い床の上で休みました。ちょうどオフィスの引っ越しの時期で、ダンボールがありました。まだ寒い3月の仙台で、1枚のダンボールがとても暖かく感じました。

 翌日の朝に救助隊が来てくれたのです。他県の隊の人でした。私たちのために遠くから来てくれたんだと、感動しました。でも周りは水没しているし、瓦礫を除去しないと移動できません。実際に移動が始まったのは、夕方になってからです。

 私が空港を出られたのは、3日目の午前中。近くの農業高校で飼っていた豚などの死体が流れ着いていました。ご遺体もあったそうですが、上司の配慮で目にしないように誘導されました。

 私の同期で、津波のひどい地域に1人で住んでいた人がいました。普段接点のない別部署の先輩が彼女に、「しばらく私の家で過ごしなさい」と声をかけてあげたうえ、私のことも誘ってくれたんです。私も1人暮らしでしたので、おじゃましました。先輩の奥さんとご両親によくしていただきました。

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涙を流しながら「良かったねえ」と