小泉武夫氏
小泉武夫氏
郷土料理の一つ、ニシンの切り込み。細切りにしたニシンを糀と塩でじっくり熟成発酵させたもの
郷土料理の一つ、ニシンの切り込み。細切りにしたニシンを糀と塩でじっくり熟成発酵させたもの

 発酵の摩訶不思議な世界に人生を捧げ、希代のグルマンとして世界中を旅してきた小泉武夫さん。人生の第2ステージ・石狩での研究とグルメ三昧の日々を綴る本シリーズも今号で完結。今回は御年八十二、矍鑠たる漁師が登場する。十日で一年分のニシンを釣り上げてしまうスゴ腕に、小泉さんは興味津々だ。

【写真】味を想像できる?ニシンの切り込み

 私が親船の研究室に通っている時、あれは三月に入って早々のこと、一人の老人と知り合った。親船町の直ぐ近くの船場町に住んでいる八十二歳で矍鑠たる爺さんである。船場町は親船の研究室から車で五分とかからない所にあり、生振運河が大河石狩川に注ぎ込む付近の集落である。直ぐ近くには全長一四一二メートルという、北海道屈指の長大橋である石狩河口橋が架けられている。

 ある春の夕方、私は研究室の真向いにある石狩川の堤防を散歩していた。堤防の広さは小型車輛二台が擦れ違うことができるほどの幅で、その土手から下を流れる石狩川縁へ行くのには、雑草の生い繁った中につくられた細い坂道を下って広々とした河川敷に出、そこにある草地をしばらく横切って辿り着けるのである。

 その河川敷から突き出すようにして舟着き場がつくられている。広さ約二〇〇坪ほどの大きさで、台風や大雨での増水に耐えられるように、川の中に没している土台はコンクリートで固められ、床を支える脚は鉄筋でしっかりと組み立てられている。舟着き場といっても、そこを利用するのは近くに住んでいる漁師の人たちで、使っている舟は木板を張り合わせてつくった鱶舟、あるいはアクリル樹脂製の釣り舟である。共に舟尾にエンジンと舵が付いていて、漁師一人が操縦し漁をすることができるものである。

 私は土手を下って河川敷に出、しばらく石狩川に沿って下流へ歩き、その舟着き場に行ってみた。そこには釣り舟が三艘係留してあったが、人は誰もいない。私は舟着き場の板床の上に座り込んで、迫力ある石狩川の流れをしばらく眺めてから、立ち上ってくるりと後ろを振り向くと、こちらに人が歩いてくるのに気が付いた。

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