同年6月、赤坂離宮(現在の迎賓館)で各宮家の懇親会が催された際には、<若宮殿下姫宮殿下>の特集記事が掲載された。

<お写真を撮らして頂きたいと願ひ出れば『ウン好し、写して行き給へ』と快くレンズの前に立って下さる世の中です、皇族と国民の接近は、誠に喜ばしい事ではありませんか>

 記事は時代の変化を素直に喜び、見出しは子どもらしさを伝えている。

<北白川宮永久王殿下はクラスのチャンピオン そして御馬も御上達><軍艦の模型をお作り 山階宮家の若君方><朝香若宮も姫君も皆様御運動好き/室内遊戯より戸外を御喜び>

 朝日新聞の宮内庁担当記者であった石井勤さんは、距離感が変化した背景には、明治43(1910)年に侯爵になった北白川宮輝久王を皮切りに、昭和初期まで続いた男性皇族らの降下があったと話す。

お金のなかった明治政府にとって、人数が増えた宮家皇族のための予算は重い負担でした。明治期に、政府は宮家皇族を徐々に華族身分に降下させる方針を固めた。そのため、世の中は皇族から国民の側へくる人たち、というやわらかな距離感があったのでしょう」

 大正13(1924)年には、摂政宮と久邇宮家の良子女王が結婚する。世間はお祝いムードに包まれた。週刊朝日も<御二方いろいろの御姿>としてグラビアページで特集。お二方の数種類のポーズ写真を切り抜きでレイアウト。

 いまよりよほど、自由な誌面だ。

 戦前、戦時中になると「週刊誌らしい」記事は消える。昭和10(1935)年に臨時増刊号として愛新覚羅溥儀を表紙にした<満州国皇帝陛下御来訪記念写真画報>を出し、「皇軍」「皇国」といった言葉は躍るが高松宮と喜久子妃による戦災地の視察などわずかな記事をのぞき、皇室報道自体ほぼ誌面に登場しない。昭和20(1945)年8月15日の終戦を迎えた最初の8月26日号には、昭和天皇による終戦の詔書の全文が1ページを使って掲載された。

 終戦翌年の昭和21(1946)年でも「アメリカの輿論 天皇および天皇制」「皇太子様の英語の先生 ヴァイニング婦人来朝」など3記事程度。

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