独立系テレビのカメラマン、レフィック・テキンもその一人。

 取材中、レフィック自身、右足に被弾するが、身を挺(てい)して撮った、白旗を掲げた非武装市民が撃たれる映像は、トルコ政府の公式発表を覆すものとなっていく。

 その後、レフィックはいったんドイツに逃れて治療を受けるが、回復を待って再び現地に戻った。まだやり残している……という思いに駆られて、である。

「……自分のカメラで、何が起きているのかを本当の意味で知らせることができたのだろうかと、自分に問い質すことがある。そうすると十分行ったとは言えないと思ってしまう」

 十分に伝え得たか──。ジャーナリズムに携わるものによぎる自問である。著者は「カメラマンとしての活動は、自分を救うためにも必要だったのだろう」と記すが、本書執筆を促したのも同じ問いかけであったろう。

 著者には、かつてカンボジアで惨劇を引き起こしたポル・ポト派の、いまや老人となった元幹部たちのもとを訪れた『人はなぜ人を殺したのか』がある。この著を読んださい、また今回も、打ち寄せるさざ波のごとくに浮かんでくる言葉があった。

 いつも、どの国でも、ホロコーストを引き起こす可能性があるのです──。アウシュヴィッツなどを潜(くぐ)り抜けたユダヤ人精神科医、ヴィクトール・E・フランクルの残した言である。

 戦後、規模や理由や背景は異なれども、各地で“現代版ホロコースト”が起きた。そのたびに、慄然(りつぜん)として立ちすくむのであるが、事実に肉薄せんとするジャーナリストたちの仕事が、迂遠(うえん)に見えようとも人類犯罪への抑止につながるものであることを信じたい。

週刊朝日  2021年2月26日号