あの頃、五十年も昔で、私もまだ五十代を出たばかり、剃(そ)った頭も青々としていました。

 ヨコオさんも英くんも(私も)、インドではたちまちインド人になってしまうのが不思議でした。三人とも、もう日本には帰らず、インド人になって暮らそうかなど言ったことでした。

 ああ、のことを書かなければ。編集者に叱られるところでした。

 今週は、猫の特集だそうです。編集者さんは、どうやらとても猫好きのようですね。ヨコオさんの猫好きは、もうさんざん、この頁(ページ)でも宣伝されています。

 私は本当を言うと、猫も犬もあまり好きではないのです。生き物で好きなのは、人間だけです。何国人でも、目と目を合わせさえすれば、あたたかい湯のような心が通じ合うのが、不思議です。私は動物ではやはり人間が一番好きです。犬は五歳の時、まっさらな白い靴下をはいて外に出たとたん、見たことのない犬が私の白い靴下に惹(ひ)かれたのか、ずっと、付いてくるので怖くなり、走って逃げたら、犬の方が興奮して、急に私に背後からおそいかかりました。あまりの怖さに私はワッと泣きだし、倒れて、真っ白な靴下を血でよごしてしまいました。以来、犬が怖くて、どんなに遠くに居ても、目ざとく見つけ、道を変えて歩いたものです。猫も犬の親類のようで、グビグビしていて気持ちが悪く、側に寄るのもいやでした。だから、他家に行って、そこに犬や猫が居ると、一目散に逃げ帰ったものです。それを知らない家の人が、犬や猫を、私の膝(ひざ)に乗せたりすると、私は震えあがって泣きだします。ヨコオさんの愛猫も薄汚い雑巾のようで、ちっとも可愛いとは思いませんでした。でもヨコオさんが可愛がりすぎるので、猫は偉そうにソファに寝ころがって、薄目でこっちを睨(にら)むのは、実に怖かった。もちろんヨコオ夫人も猫に目がなく、自慢しているので、私は全身に吹き出物がでそうでした。

 その猫が病気で死んだ時、ヨコオさんが泣いて悲しむのを見て、私は寂庵に帰り、その猫のために長いお経をあげました。私はやっぱり動物では人間が一番好きです。人間には時々裏切られるけれど、犬や猫のように、いきなりひっかいたりはしませんものね。

週刊朝日  2020年12月18日号