私は文章を書く時、読者の思わくなど考えるヒマは持ちません。好きなように書いて、「気に入ったなら読んでおくれ」という調子で読者に向(むか)っています。その調子で大方、八拾年近く、書きつづけてきました。よくつづいたなあと、今頃感嘆しています。画家のヨコオさんの絵のようには、作家の文章は、めったに残りません。殆(ほとん)ど残らないと言った方が正確かもしれない。そんなはかない文章で、お金を稼いで生きていくのは、なかなか難しいことです。奇蹟(きせき)に近いことです。八拾年近く、文章以外のことでお金を稼いだことはありません。文章が売れるようになる前、小さな京都の出版社や、京大の医学部の研究室で、雑役係をして稼いだことがありましたが、程なく上京してあてもないのにペン一本の生活を始め、百歳近くの今まで生きてしまったのです。この道以外に、生き方があったかと、ふり返ってみても、そんな道は一向に見当(みあた)りません。

 ヨコオさんのおっしゃるように、このシンドイ生き方が、私の生きる快感になっていたのでしょう。この道以外の生き方など、今考えても思い浮びません。ヨコオさんのような生(うま)れつきの天才のかけらもなく、ひたすら、ただ書きに書くだけの生活で、百歳を目の前に迎えてしまいました。家庭をこわし、子供を捨て、ろくでもない情事に足をすくわれ、みすぼらしい生き方をつづけてきましたが、今更それを後悔するほどの感傷もありません。

 ヨコオさんのおっしゃるように、後先見ない衝動的生き方が、自分の芸術の原動力になったというしかないのでしょう。

 中尊寺で出家した時、近所の散髪屋の娘さんが来て、バリカンで、私の長い髪をバッサ、バッサと刈りはじめた時、その部屋についてきていた姉が、わっと声をあげて泣きだしました。部屋の廊下の外にしのんでいたジャーナリストたちは、その泣き声を私のものと勘ちがいして発表していました。私はくりくり坊主になる私の姿を夜店に売っているような手鏡の中に見つめながら、涙など一滴も流しませんでした。亡くなっていた三島由紀夫さんに、この頭を見て欲しかったなと、チラと頭の中で想(おも)ったものです。

 ヨコオさん! 私はあの時、一度死んでいます。この世での私の命も、間もなく、なくなることでしょう。思う存分生きた私に、今、この世に何のみれんも執着もありません。ヨコオさんより先にあちらに行って、待っていますよ。日当りのいい場所を見つけて──。

ではまた。

週刊朝日  2020年12月4日号