作家の下重暁子さん
作家の下重暁子さん
写真はイメージです(Getty Images)
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 人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、俳句を通して気づいた日本語の妙について。

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「連句をやらない?」

 かつて一緒に俳句をやっていた仲間から声がかかった。

「コロナの時期、ラインでやれば会わなくてもすむし」

 私が遊んでいた俳句の会は三つほどあるが、いずれもコロナで休止している。私は会のある時しか作らない怠け者なので、このところ俳句は遠くなりつつあり淋しかった。

 彼も同じ思いだったのだろう。

 しかし、連句はおいそれと出来るものではない。そもそも俳句の前身であり、江戸時代、生業として俳諧師の宗匠が座を組んで三十六歌仙を巻いた。五七五に続いて七七とつけ、次は五七五・七七と前の句からの連想でつないでいく。途中、月や花、恋の句が入り、春、夏、秋、冬、雑と順番によって決めごとがある。つきすぎず離れすぎず想像力と感性の高級な遊びである。

 私はかつて、佐々木久子さんが主宰する「酒」という雑誌の酒恋歌仙のゲストメンバーだった。宇田零雨宗匠の下、早大の恩師、暉峻康隆先生に誘われて何度か遊びに行ったが、難しい分、楽しかった。

 芭蕉はかつて宗匠だったので、発句を詠む。その発句集が奥の細道になり、数々の名作を生んだ。独立して五・七・五の俳句になったのは、明治になって正岡子規が俳句と名付けてからだ。

 俳句ではもう四十年以上遊んでいるが、連句は座の文芸で、集まった人々が一つの作品を作り上げる面白さがある。こんなに趣のある遊びは他にない。

 五人で始めて、おこがましくも私は経験者ということで、発句を承った。「秋の蝶」の巻、今三分の二位まで巻いたが、他の人の句から自分の句を連想たくましくするのが待ち遠しい。

 そこで改めて気付いたのは、連句や俳句は、一字違えば意味も趣も変わる。

 六月を奇麗な風の吹くことよ

 私が大好きな子規の句である。わかりやすく、それでいて深くすっきりと子規らしさが表れている。

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下重暁子

下重暁子

下重暁子(しもじゅう・あきこ)/作家。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。この連載に加筆した『死は最後で最大のときめき』(朝日新書)が発売中

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