不退転者は現世のしがらみがいっさいない魂の居住地、いわゆる涅槃(ねはん)という極楽に行きます。セトウチさんのおっしゃる極楽とは根本的に異(ことな)る、完成された魂のみが安住する場所ですから、死んだら誰もが行ける場所ではないです。完全な解脱者のみが行く場所ですから、競争率は何百倍、何千倍、何万倍だと思います。

 でも仏教では「人間は死んだら極楽に行く」と確かに言います。ある意味では当(あた)っていますが、数え切れない転生を繰り返した先きの先きの未来の話をしているのです。そんな幻想みたいな話をするよりは、「今」をちゃんと生きなさいとお釈迦様は言いたかったので、あえて死後生をノーコメントにしたんだと思います。孔子もそうですが、彼等(かれら)は当然悟りを得ていたので知らないはずがありません。「そんなことを考えるな」と諭(さと)す方が正しいはずです。

 死後生を否定する考えの中には、現在の自らのあり方を問われるのが怖い、という観念がある。エンマ大王がいるわけではない。自分自身が自分のエンマ大王になるのだから、こんな恐しいことはない。だから無と言ってしまいたいんじゃないでしょうか。そのくせ、お葬式の弔辞では、そっちで酒でも酌み交わそうと、インテリほど調子のいいウソをつきます。そこでセトウチさんの誰の話でもない独自の死生観も聞かせて下さい。では楽しみに待っています。

■瀬戸内寂聴「今度はあの世の話 ついに来たか!」

 ヨコオさん

 いつか必ず来ると予感していた内容のお手紙が、ついにまいりました。

 ヨコオさんと、おつきあいが始(はじま)って以来、幾度、対面して話しあったかしれないのに、お互い照れやで(人は誰もその反対と誤解している)、あまり、生真面目な話や、高尚ぶった話(特に芸術論など)は、照れ臭くて、どちらからともなく、さけて来ましたよね。

 知りあって以来、ヨコオさんは、ほとんど、絶間(たえま)なく、病気になったり、怪我(けが)したりして、入院ばかりしていました。

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