瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。『場所』で野間文芸賞。著書多数。『源氏物語』を現代語訳。2006年文化勲章。17年度朝日賞。
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。『場所』で野間文芸賞。著書多数。『源氏物語』を現代語訳。2006年文化勲章。17年度朝日賞。
横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。(写真=横尾忠則さん提供)
横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。(写真=横尾忠則さん提供)

 半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。

【横尾忠則さんの写真はこちら】

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■横尾忠則「人が死んだらどうなるか お考え聞かせて」

 セトウチさん

 今回は少し絵から離れて、人間死んだらどうなるか? というセトウチさんの死生観をお聞きしたいと思います。セトウチさんは死んだら誰でも極楽へ行く、そして救われると講話でおっしゃっていますが、その根拠は何(な)んでしょうか? お釈迦(しゃか)さんはそのことに関してはノーコメントで語りませんでしたね。

 大半の知識人や文学者はことごとく死後生を否定します。セトウチさんと往復書簡を交わされた石原慎太郎さんは「天国も地獄も来世もない、死はただただ虚無として存在しているだけだ」とおっしゃっています。死後の存在の有無は生き方に大きく関わってきます。多分、無いんじゃないかな、いや有ると思う、漠然として、これじゃ生き方が定まりにくいですよね。

 では、僕の考えを述べます。結論を先(さ)きに言いますと、死ぬと無ではない。生の延長とはいわないまでも、生の変形で存在すると思っています。人間の生のスタートが誕生であれば全員が平等なはずですが、どう考えても平等ではなく不平等でスタートします。ということは誕生以前、つまり前世を想定することで、今生の不平等が肯定できます。今生のスタートが平等であれば、前世の存在などは必要ないわけです。今生の存在の仕方は過去世の行いと考えによって業が定められます。と考えると、今生で積んだ業と、すでに解消された過去世の業の取引によって、来世が決定されます。

 来世のスタンバイ期間が死の世界ということになります。そして、その魂は来世へ転生していくというのが、僕の輪廻(りんね)転生論です。と考えると、今生の生き方が重要になってきます。つまり今生の業のおつりによって来世への行く場所が定まります。そこで生まれ変(かわ)るか、それとも不退転として永久に生まれ変らないかが決まります。

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