姉は三味線もオルガンも、ピアノも、ちょっと音が出ましたが、私は琴を習わされましたが、さっぱりダメでした。盲目の美しいお師匠さんが、とても可愛がってくれましたが、才能というのは、無いものは努力したってのびようがありません。それでも、お師匠さんの膝(ひざ)に乗っかって、人力車で、どこかの公会堂で一度だけお琴の会に出かけたことを覚えています。

 お嫁に行くとき、母が花嫁の荷物に、お琴を入れてしまったので、向こうの家で弾いてみろと言われ、切腹したくなったのを覚えています。夫は古代中国音楽史の研究家をめざす学者の卵で、ずっと中国の北京で留学生の暮らしを続けていたので、私は未来の学者の妻になることを夢見て北京へ喜んで嫁いだのでした。すべては夢でした。二十一歳の花嫁、何と可愛らしかったことでしょう。

 今年の夏で終戦七十五年とか。まあ、色々様々な経験をさせてもらいました。

 そして九十八歳にもなって、子供のように無心に絵を描いているこの生活。感謝しないと、バチが当たります。五十一歳で、何やら決然と頭をまるめ、出家してしまいましたが、その件では、後悔したことは露もありません。

 あの世があるかないか、悟りにうとい私には、まだ確たる答えが出来ません。

 ただ法話では、

「今は死人も多くなったので渡し舟などでは間にあわない。豪華客船でみんな一緒に、向こうへ渡ろうよ。あちらの岸では、先に死んだ人たちが待っていてくれ、その晩は歓迎パーティよ。シャンパンも出るよ!」

 と言って、みんなを喜ばせています。

では、また。

週刊朝日  2020年10月2日号