作家の下重暁子さん
作家の下重暁子さん
※写真はイメージです(Getty Images)
※写真はイメージです(Getty Images)

 人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、秋の庭で考えたことについて。

【写真】「いいなあ」。下重暁子がため息をついた相手とは

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 東京駅を出ると優しい風が吹いた。想像していたより東京も秋めいていた。しばらく軽井沢の山荘にいたので暑さを忘れていた。というより旧軽井沢の愛宕山麓にある山荘は、夜は寒いぐらいだった。

 毎年八月二十日を過ぎると、突然秋になっている。ある朝ひんやりと肌を這う感覚に驚かされて、外を見ると、庭の楓の頂が朱くなりはじめ、日に日にその色が濃くなってくる。今年は異例だが、普通の年は軽井沢では二十日過ぎに小中学校が始まる。すすきの穂が出はじめた国道十八号線をランドセル姿の子供たちが並んで登校していく。

 異常気象とはいえ、秋になると自然は忘れずにその到来を告げる。

 萩やソバナ、赤まんまが風に揺れ出し、赤トンボの数が増えていく。

 黒アゲハのドレッシィな衣裳、モンシロチョウなど、蝶々や昆虫に詳しくないのでよく分からないが、秋は庭を訪れる珍客が増える。

 灯があれば、ごく小さなものから掌ぐらいもある大きなものまで、蛾がガラス戸に張りついている。

 昨年、秋の終わりに近づいた頃、香川県に講演に行った。お寺二か所での講演で養老孟司さんと私が講師だった。

 羽田から高松空港に夕方着いて、迎えの人の車に乗った。
 すると養老さんが突然その車の後ろにまわって手を拡げて何か追いかけている。

 危ない! 転ばないでと思っていると敵は見事に逃げ去っていった。

 養老さんの頬は紅潮している。

「残念だったなあ! それにしても今頃こんな所で出会うとは」

 それは珍しい種類の蛾だったようだ。薄暗がりの中で白い羽ばたきが見えたから、よほど大きな獲物だったに違いない。

 まるで少年のように輝く目、追いかける身ぶり。養老さんは少年にもどっていた。というより、今も養老さんは正真正銘の少年そのものなのだということが分かった。

「いいなあ」と思った。

 私はそんな瞬間に出会えたことが幸せだった。

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下重暁子

下重暁子

下重暁子(しもじゅう・あきこ)/作家。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。この連載に加筆した『死は最後で最大のときめき』(朝日新書)が発売中

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