400人以上を看取ってきた訪問診療医・小堀鴎一郎さんと、3千人の死体を観察してきた解剖学者・養老孟司さん。そんな二人ならではの対談集『死を受け入れること 生と死をめぐる対話』(祥伝社)が、話題を呼んでいる。コロナ禍の今、理想の最期について語り合った。
【前編/養老孟司「不安と同居するやり方を覚えるのが成熟」コロナ禍の社会で】より続く
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小堀:養老先生は「人が価値を置くのは自分が意識してわかること」と書かれています。でも、実は意識というわかってない部分がほとんどを占める、ということなんですよね。
人が死から目を背けるのも、わかっていない死というものに価値を置かず、傍らに置いておきたい、ということでしょう。普段からどうやって生きるべきか考えていない人が、死にそうになってから考えても考えつくわけがないですよ。
例を挙げますと、90代のおばあさんで、猫と暮らしたい、という方がいらっしゃいます。そのおばあさんはこの5年間で何度も失神発作を起こすことがあって、何回も入退院しているんです。この前、脱水で入院したときに、お子さんもケアマネジャーも「施設に行かなくては」と言うんですね。確かに常識ではその判断が正しいかもしれません。
でもその人は「猫と暮らしたいから、自宅に帰る」と言うんです。結局私が面倒を見るということにして自宅に帰したんですが、それから1年たっても、おばあさんは猫と至福の日々を暮らしています。暖房もないのに猫には猫用のこたつがあってね。そういう人はそこで猫と一緒に死ねれば幸せなんです。その人の生き方を貫くことは、その人らしい死に方につながるんだと思います。
養老:僕の同僚だった免疫学者の多田富雄さんは、脳梗塞で指一本しか動かなくなってしまったのですが、その状態で本を書いたんです。その本の中で「生きていることを実感している」と書いています。生きること自体が大変になると、実感するんでしょうね。