吉村氏も安倍首相へのアピールを忘れない。インターネット番組に出演したときは、安倍首相の悲願である憲法改正について「僕も憲法改正の国民投票に一票を投じたい」と発言。憲法改正を争点にした解散総選挙について「なんでその勝負をかけてくれないのかな」とあおり立てた。

 コロナ後、全国区の政治家として知られるようになった吉村氏は、どのような道を歩んできたのか。

 吉村氏は大阪の名門校・生野高校を卒業後、九州大学法学部に進学。23歳で司法試験に合格した。大手航空会社のキャビンアテンダントだった美人妻との間に子どもがいる。武富士の代理人としてメディアを相手に訴訟を連発するなど、名前の知られた弁護士だった。その彼を政治家の世界に呼び込んだのは、故やしきたかじんさんだった。芸能プロダクションの関係者は、こう証言する。

「吉村さんが芸能プロダクションの仕事をしていたとき、たかじんさんと仲良くなった。当時、橋下(徹)さんが弁護士タレントとして人気で、それでたかじんさんが二人を会わせたんです。橋下さんも吉村さんもラグビー経験者で意気投合。橋下さんが政治の世界に打って出たときも、たかじんさんが吉村さんに『あんたも政治向きや』と言って、背中を押しました」

 2008年に大阪府知事に就任した橋下氏は、11年の大阪市議会議員選挙で吉村氏を大阪維新の会で公認。吉村氏は初当選した。14年には、橋下氏の依頼で任期途中で市議を辞職すると、同年の衆院選に大阪4区から出馬。自民党候補に敗れたものの、比例復活で当選した。日本維新の会の国会議員は言う。

「国政に出るときはほかにも候補がいましたが、橋下さんが『吉村しかいない。将来、維新の顔になる男だ』と言って押し切った。衆院議員になった後は、吉村さんは『国会議員は当選を重ねてキャリアを積まないとダメ。10年先を見ながら仕事をしないといけない』と堅実に話していました」

 それが、本人の思惑とは違う方向に物事が動いていく。15年の大阪府知事選と大阪市長選が同時に行われたダブル選挙では、吉村氏に大阪市長候補として白羽の矢が立った。

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