開高は毎回、文体を変えて書いていった。

「夜の屋台を取材した時はほぼ会話だけで描き、下水処理場の取材では子供の作文調にまとめ、講談調や現代詩風に書き上げた時もあった。寿屋のコピーライター時代からアイデアマンの素地は感じさせたが、この文体の工夫が連載成功の一因だと思います」

「ずばり東京」は舞台化され、映画化したい、という申し出があったほどの人気連載になっていった。

 開高健記念館で開催された「開高健『ずばり東京』展」のポスターのキャッチコピーはこうだ。

「東京オリンピックは日本にルポ文学の傑作を残した」

 直木賞作家の重松清さんは2007年、NHK「私のこだわり人物伝」で開高健を取り上げた。

 開高のノンフィクションから1冊を選べと言われたら「ずばり東京」を選ぶ、として、こう書いた。

「言葉で生きているものの端くれとして、『ずばり東京』に激しく嫉妬するのです。あの時代の東京とあの時代の開高健の、文字通り一期一会の邂逅」

 開高のルポといえば、アマゾンなどで、読む者をわくわくさせた釣り紀行「オーパ!」。ベトナムの戦地で従軍取材し、九死に一生を得ながら現地から送稿した記録「ベトナム戦記」を思い浮かべる読者は多いだろう。

 実は「ずばり東京」がなかったら「ベトナム戦記」は誕生していなかった。前出の永山さんによると、「ずばり東京」のゴールが見えてきた64年8月末に、足田編集長は開高健にこう伝えたという。

「おかげさまで『ずばり東京』は大変好評です。ぜひ、終わったら世界中どこでも好きなところにいらしてください」

 この提案に開高は「ほんならベトナム」と即答したという。

 それに応えるように、連載終了後すぐに大使館や外務省、旅行会社などを駆け回り、「朝日新聞社臨時海外特派員」という立場でのビザを得て、開高健は連載終了の3週間後の11月15日にベトナムに飛び立ったという。戦記ルポの名作「ベトナム戦記」はこうして生まれ、開高健のルポ文学は花開いていくことになる。

 永山さんは言う。

「開高さんのルポが私たち書き手に与えた影響は大きい。それまで、いわゆる新聞社文体という“客観文体”でものを書いてきた雑誌記者たちは、雑誌の文体というものを意識し始めたんです。客観文体を超えて、自分の主観を解放して書く方法もあることを知ったわけです。そのためには、奔放にボキャブラリーを使いこなせるようになり、適切な比喩を選び取る努力が必要でしたが、多くの記者が開高さんのルポを意識して記事を書いていました」

 記者(57)もその一人である。(本誌・鈴木裕也)

週刊朝日  2020年7月31日号より抜粋