現代の美術は複雑な社会構造と一体化しつつあります。美術は本来「反(アンチ)」であるべきです。こんなことを言っていると時代遅れの前衛だと言って相手にされないかも知れません。僕にとって「反」というのは魂への回帰のことです。魂はもともと単純なもので複雑なものではないはずです。

 僕にとって言葉が消えたり失ったりすることは、魂の古里、原郷への道ではないかと思っています。なんだか、お坊さんのお経のような仏々いった手紙になってしまいました。絵はどちらかというと言葉のない世界を表現する媒体です。言葉では描けないもの、説明できないものを描く使命というより「遊び」です。

 人間は何のために生まれてきたのか。夢を実現するとか、社会に貢献するとか、金持(かねもち)になるとか、有名になるとか、色々目的はあると思いますが、本当は目的のない生き方をするためではないかなと思います。だったら「遊び」しかないですよね。遊ぶために生まれてきたにもかかわらず悩みが多いですね。ここから先(さ)きは仏教の世界かな? 上手く話を続けてください。また3行余ってしまいました。これからの人生も余った人生だと思って、のろのろ無為な時間を遊びましょう。ナムアミダブツ。

■瀬戸内寂聴「我失くすほど『愛するため』生きる」

 ヨコオさん

 九十八歳になった私は、最近、体じゅうがいつも痛く、動きがひどく鈍くなってきました。

 五十一歳で出家して坊主頭になり、比叡山の修行道場に入り、自分の息子のような若い新米修行僧と一緒に寝泊まりして、半年間、それはきびしい行をさせられた時、脚の長さが自分の倍もあるような、現代っ子の青年僧に負けまいと、涙ぐましい努力をしたおかげで、私の立居振舞(たちいふるまい)は、見る見るきびきびとして、吾乍(われなが)ら鮮やかになりました。

 何のために自分がこんな苦労をしているかなど、考える暇など全くなくなり、一日があっという間に過ぎてゆきます。

 一日にしゃべる自分の言葉は、ほとんどありません。

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