杏さんが初舞台を踏んだのは、16歳になる年のことで、演目は「奇跡の人」。ヘレン・ケラー役だった。

「そのときはセリフがなくて、同じ年の秋には蜷川(幸雄)さん演出の『ハムレット』の舞台に立っていました。だから、初めてのセリフがシェイクスピアだったんです。当時から毎回、“できないことをできるようにしていく”。それをひたすらやっていて、無我夢中で、目の前にある壁を登って、今またここにいる感じです」

 舞台女優としての、大きな目標があるわけではなかった。ただ、コツコツと修練を積み重ね、毎日の生活の中に、稽古や本番がある。映画のように、どこか遠い場所で撮影のためだけに時間を費やすのでもなく、ドラマのように、一日の時間が断片的に切り取られていくわけでもなく、舞台のときは、朝起きて稽古に行って、終わったら家に帰る。暮らしと地続きにある、その日常性が性に合っていた。

「朝起きて、体を動かしたり、食事をしたり、掃除や洗濯なんかをして、決まった時間に家を出て、決まった時間に稽古場に着いて、だいたい決まった時間に終わる。本番も同じで、劇場入ってアップして、ご飯を食べて、メイクして、本番。それを毎日繰り返す、コツコツした感じが好きです。稽古が終わればスーパーに寄って、自分の家でご飯が作れる。自分の生活も確保しながら仕事もできる。学校に行っていた頃は、それなりに忙しかったけど。でも、空いている時間にやりたいことをできるのが舞台。人と会う約束もできるし、先のスケジュールがわかるので、予定が組みやすい。そういう、シンプルな理由で、私は舞台が好きなのかもしれません(笑)」

 今回、新型コロナ感染症の影響で、3月から6月にかけて、ほとんどの劇場がクローズした。「殺意~」は、いわゆる“withコロナ”期に、先陣を切って開催される舞台の一つとなる。もし、この時期に上演される運命だったとしたら、そこに込められたメッセージは、どう今の時代とシンクロするのだろうか。

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