貴田さんによると、東宝から生活できる最低限の給与を受けていたが、原からの申し出により70年ごろには停止していたようだ。

 隠居生活に入ってからは、本名である「会田昌江」として、静かな後半生を過ごした。

 晩年には鎌倉に住む親族の家の敷地内に別宅を築いて暮らしていた。JR鎌倉駅からバスに乗り、浄明寺で下車した先に、その自宅がある。現地を訪れると、原が健在だったころと変わらない高い生け垣に囲われていて、敷地内の様子をうかがうことはできない。自宅と隣接するお寺の前住職は、原との思い出をこう振り返る。

「普通のおばあちゃんでしたよ。帽子にサングラス姿で、道でよくすれ違ってね。向こうから話しかけてくることはなかったけど、こっちから挨拶すると返してくれた。記者やカメラマンが生け垣に張り付いて覗こうとするから、コラーって、よく叱ってやったもんだよ(笑)」

 散歩姿を目にする近所の人たちは“目立っていた”と口をそろえて言う。

「大きなつばの帽子を被っている人が歩いているから、ふと目に入るのよ。こちらが気づくと、いつも顔を隠すように手でつばを下ろしながら歩くもんだから、余計に気になってね。だから、あっ、原さんだっていつもすぐにわかったわ」

 引退後、なるべく人目を避けながら暮らしていたことがわかるエピソードだが、それでも隠し切れない大物オーラが漂っていたようだ。

 原は2015年9月、95歳で亡くなった。同じ敷地内に住む親族の男性は、当時、本誌の取材にこう語っている。

「8月中旬に体調を崩し、肺炎と診断されてそのまま入院。亡くなる直前まで意識はしっかりしていました」

 亡くなる直近まで庭に出たり簡単な料理をこしらえたりしながら自宅で過ごしており、好きなテレビドラマを見ては、「あの役者さんがお上手ね」などと感想を漏らしていたという。

 早すぎる引退と、謎に包まれた“隠遁生活”の理由は今となってはわからない。それでも、フィルムの中でほほ笑む原節子の輝きは、今もなお、色あせることがない。(本誌・岩下明日香)

週刊朝日  2020年6月26日号