あるとき展覧会でめくるめく冥土の世界に圧倒された私は控え室に横尾先生を訪ねた。そこにはタマちゃんの描きかけの絵があった。絵の元となる写真が置いてあった。私はぞっとした。写真から立ち上がってくるもの以上の何かがそこには「さらっと」描かれていた。


「なんだこの絵…すごいな」と私は震えた。運命や神様のようなものが存在するとしたら、なんで横尾先生にあんなたくさんのすごい絵を描かせ、その全ての力をタマちゃんの絵に結実させるなんてことをするんだろう。すごさの種類が違うから、どちらがどうということではない。心からない。

 でも、タマちゃんの絵は、なにかを超えている。描いたご本人には多分わからないと思う。歴史が証明するだろうとも思う。こんなすごいものを描いてしまったことに、だれもがまだ気づいていないんだと思う。いや、いるのだろう、きっと。大勢の人が実は気づいているのだろう。日本って変な国だからみな気づかないふりをするのだ。知るのが怖いから。私が新人だった頃みたいに。

 命を描いているのでもなく、情愛を描いているのでもない。横尾先生の描くタマちゃんは、たったひとつの真実を描いている。

 私たちは生まれて、必ず死ぬ。その一瞬の中でできることは、他者の存在とその自由を愛することだけだ、ということを。ではなにが他者の存在とその自由を愛するのか? 自分の命と自由が愛するのだ。

 愛ってなに? それは正確に視ること、それだけ。そんなすごいことが、全部描いてあるのだ。

 絵が世界的なレベルであることに関して私はこれ以上の専門的なことは言えないが、最後のタマちゃんからの手紙の文章がまたすごかった。

 文章のことなら私にも少し言える。横尾先生がタマちゃんで、タマちゃんが横尾先生だ。一体とか愛とかではない。ただ無慈悲に、この世の理としてそうなのだ。横尾先生は超えた。超えた先のものをまだまだ見たいから、まだまだ生きて描いてほしい。私も同じ道を追いかけます。

週刊朝日  2020年6月5日号