「私、不器用なんですよ。小学校6年生のときに学校で浴衣を縫わされたんです。でもきれいに縫えない。先生からは『お母さんの学校を継ぐのに、困りますよ』と言われて。中学でも同じことをよく言われました。そう言われると、反旗を翻したくなるじゃないですか。母の学校は優秀なお弟子さんにやってもらえばいい。私には私の道があると思ったんです」

 娘の反抗に驚いた母との話し合いの結果、大学の授業に出席するという条件で、1年間だけ文学座の活動を認めてもらった。

 1年後。大先輩の芥川比呂志さんに、母親の前で諭された。「大学を出てから文学座に来てもらっても、遅くはないんです」と。

「尊敬する芥川さんの言葉ですから、素直に従いました。共立の中では才能があると思っていましたが、私程度の者は掃いて捨てるほどいるんだということも感じていましたし」

 文学座に戻ることはなく、母の学校を継ぐことを決意した。苦手な裁縫は他の職人に任せ、自分は洋服の別の分野で働けば良い。デザインが得意なので、そちらで頑張れば良いと気づいたからだ。

 話を事業開始後に戻そう。桂さんが店を出した10カ月後の65年11月から、いわゆるいざなぎ景気が始まった。史上最長の好況(当時)は、桂さんの読み通りに日本の結婚式を変えていった。

「それまで花嫁は、式でも披露宴でも、同じ黒振り袖を着ていたんですね。でも景気が良くなったので、京都の和服屋さんたちが考えたんです。色打ち掛けで式に出て、披露宴はお色直しをして振り袖で出る、と。2種類着せようとしたわけです。そうしたら、お嬢さんたちが言いだしたんですよ。『ふたつ着られるんだったら、2着目はウェディングドレスがいい』と」

 こうしてブライダルはビジネスとなっていった。(本誌・菊地武顕)

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週刊朝日  2020年5月29日号より抜粋