女子大生の40%が「着たい」と答えたウェディングドレス。なぜわずか30着しか注文が入らなかったのだろうか。

「100着くらいの注文を受けたんですよ。でもキャンセルが70着出たんです。本人が着たくても、親が嫌がった。それに結婚式で一番発言権が強いのは、新郎の母。お姑さんが『ドレスみたいな安っぽいのはやめて』と言うと、諦めるしかないんです。たしかに当時の日本には、レースなど高級な生地はありません。着物のほうが10倍も20倍も高かったですからね。それに和装業界からのバッシングもすごかったんです。『邪道だ』『日本の敵だ』とまで言われて。それでは、おめでたい場で着るのをためらってしまいますよね」

 大赤字の中でも事業を継続したのには、夢だけでなく勝算もあった。

 店を始める前に、1年をかけて世界中の結婚式を視察した。母親が貯めてくれた結婚資金を使って。旧ソ連から始まり、ヨーロッパ各国を回り、アメリカとメキシコまで。約20カ国を巡って、ひとつの結論を得た。

「経済が良くなると、結婚式は派手になる」。いずれ日本の結婚式にも豪華なウェディングドレスの出番がやってくる。そう信じ、無給で働き続けた。

 結婚式の主役・花嫁を華麗に演出することにこだわるのは、学生時代に続けた演劇の影響かもしれない。

「共立の中学校に入ったとき、立派な講堂があるのに入学式と卒業式しか使わないと知って、もったいないと思ったんです。何に使おうかと考えて。戦争に負けて、娯楽のない時代でしょう。演劇がいいんじゃないかと、脚本を書いてみたんです。私は太っていて女優さんという容姿ではない。脚本と演出で人を感動させたい、と」

 こうして誕生した演劇部で、1年生ながら部長に就任。最初に上演した「たけくらべ」が保護者らから好評だったこともあり、のめり込んでいった。結果、中学、高校、大学と10年間にわたって演劇部長を務めた。

 高校卒業後には、文学座附属演劇研究所に入った。演劇への興味と、母の学校を継ぐことへの抵抗もあった。

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