「山前監督は人がいいので、これまで騙されてきたケースが多かった。『お金取られた』とか言っていたこともありました。ホラー映画は続編の出演も頼まれました。突然、亡くなったという知らせを受けてビックリですよ。この時期ですので、まさか新型コロナに感染したのかと思ったのですが、検査もしてないのでどうなのかわからないらしいですね。ともかく、心臓の持病が再発したということは確かです」

 亡くなる2日前も、東京・北千住のスタジオで、自身が主催するネット番組に出演していた。

「そのときには食欲がなくて、いつもより気弱になっていたのがすごく気になっていました……」(Aさん)

山前さんは今年に入ってから、だんだんと体が弱って来ていたという。

「亡くなる数日前も、眠れないと言って病院へ行っていました。医者からは『肺に水が溜まっている』と言われてました。塩分の摂りすぎで、血圧が185とか200近くあって高かったんですよ。4月になったら心臓のカテーテル検査をする予定だったのですが、それまで持たなかった」(同前)

山前さんは昨年末、記者に倉木さんとの思い出をこう語っていた。

「麻衣ちゃんが3歳の頃、クリスマスのプレゼントに靴下とおもちゃのグランドピアノをあげました。麻衣ちゃんはおもちゃのピアノを一生懸命弾いていたので、ローンで本物のピアノを買ってあげ、近所のピアノの先生に習わせていた」

 倉木さんは山前氏との日々を事務所を通じて、こうコメントした。

「色んなことがありましたが、近年ではライブを観に来ていただいて、差し入れなど入れて頂き、陰ながら見守っていただいていました。父との思い出は沢山あります。幼い時からの楽しかったエピソードを思い返しますが……。父と私の大切な思い出として心に収めさせていただきたいと思います」

 前出のハマック柳田氏はこう語る。

「ずっと会いたがっていた麻衣ちゃんに、最後の最後、骨になってからでも会えて良かったと思います」

 山前さんの晩年を支えたAさんは山前さんの事務所「OCEAN50」に所属。監督とアシスタントという関係だったという。

「監督はホントに麻衣さん、麻衣さんでした。麻衣さんのために生きていたような人です。これからは麻衣さんの背後霊のようにべったりくっついて離れないのではないでしょうか。麻衣さんの活躍だけが、監督の一番望むところでした」

 山前さんは昨年末、記者に自身が作詞した「MY LOVE~娘よ~」というバラード曲を送ってきた。本人が「きっと僕は君のパパでずっと変わらず」と歌っていた。

 生前の再会はかなわなかったが、父娘の絆は深い。ご冥福をお祈りします。
(本誌 上田耕司)

※週刊朝日オンライン限定記事

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上田耕司

上田耕司

福井県出身。大学を卒業後、ファッション業界で記者デビュー。20代後半から大手出版社の雑誌に転身。学年誌から週刊誌、飲食・旅行に至るまで幅広い分野の編集部を経験。その後、いくつかの出版社勤務を経て、現職。

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