三十歳前から、書くだけで、七十年も生きてきたことが、不思議といえば不思議なことです。

 つい最近も、文芸誌の連載の、小説とも随筆とも云(い)えないものを、八枚書くのに、徹夜してしまいました。近頃、筆が遅くなったのは、書きながら、書いていることとは別な事が、次々想(おも)い起されてきて、書いていることと、その想いがごっちゃになって、書いている手が自分のものでないような気がしてくるのです。たぶん、絵描きさんは、こんな時、パーっと、絵具をかえて、塗り変えるのでしょうね。

 最近、私は絵描きさんのように、書いている物の上に絵具を塗り付けるように、書き重ねているのです。もう、この年になれば、何をしてもいいだろうと開き直っています。

 コロナは老人を好むそうだから、もう二週間ほどで満九十八歳になる私なんか、いい鴨(かも)だと思うのに、まだ寄り付く気配もありません。でも、そう言っている明日あたり、ピタッと、全身にコロナが吸い付いているかもしれない。

 私の親しい友人の立石義雄氏が、突然コロナで亡くなられました。得体(えたい)の知れない、掴(つか)みようもなかったコロナが、親しい人に取りついて殺してしまったとなると、急に実在感が迫ってきて、全身に痛いような震えがおこりました。

 立石義雄さんは、私の親しくしていた市田ヤエさんという京女の娘婿になられたので、私とも親しくなりました。

 人、特に男を見るのに天才的な目のあったおヤエさんが、

「絶対、彼は立石電機(現オムロン)の社長になる。そして会社を大きく世界的に飛躍させる」

 と予言した通り、四十七歳で、立石電機の三代目の社長になったあとは、会社をオムロンと名づけ、世界的な企業に発展させました。

 一見おだやかな紳士で、いつ会っても愛想よく、姑(しゅうとめ)や妻の一友人にすぎない私までも、丁重に扱い、やさしい笑顔をたやしたことはありませんでした。

 京都経済界の重鎮になり、なくてはならない指導者になっていました。その人がコロナに取りつかれ、八十歳であっという間に亡くなったのです。知人が犠牲になると、急にコロナの実在が実感され、不気味さが身に沁(し)みます。もう生き過ぎた私が、代わってあげたかったと、つくづく想います。ヨコオさん、気をつけてね。まだ、おとなしく蟄居していてくださいね。

 よく食べて、ぐっすり眠ってね。では、また。

週刊朝日  2020年5月8‐15日号