そのうち左眼も使えなくなれば、私もヨコオさんのような大きなキャンバスを買って、それに大きな字で文章を書こうと思っています。そうなっても、書くのを止めようと思わないところが厚かましいですね。

 仰せの通り、私たち百歳に近い人間は、コロナに襲われないでも、もうすぐ寿命はつきますが、出来れば、コロナの餌食になるより、寿命がつきて、おだやかに死にたいものです。

 私は一遍死んだふりして、棺のまわりで誰が、うそ泣きしているか、誰が本気で泣いてくれているのか見定めたい。いつも人の背のかげにいて、ろくに口もきけなかった人が、くしゃくしゃの泣き顔をして、声も押さえきれないで、泣いてくれるのを見たら、自分が死んでしまったことを忘れて、その人に向かって合掌することでしょう。その時にならないと、自分に対する他者の愛情なんてわかる筈(はず)がありません。

 でも出来れば、あちらへ行っても、ヨコオさんとは仲良くしたいですね。

 私はコロナでは死なないと思います。寂庵から一歩も出ないし、人も訪ねて来なくなったし、日ましに青葉が濃くなり、次々、季節の花が咲きつづく浄土さながらの寂庵で、ひっそり、本を読み、ものを書いているのは、最高の病魔よけの生活です。

 百年近い年月を生きて、さて、どの時が一番つらかったか、愉(たの)しかったかと思い出してみると、北京で終戦を迎えた日のことです。

 夫は北京で召集され、どこに行ったかわからない。誕生日のまだ来ない赤ん坊を、十六歳のアマにあずけ、私はやっと見つけた日本人の運送屋に初出勤した日でした。昼すぎ、主人に呼ばれ、ラジオを聞かされ、終戦を知りました。

 聞いた途端、私は夢中で店を飛び出し、赤ん坊の処へ駆けつけました。途中、しのつく大雨になり、傍の映画館の軒に雨宿りしました。その五分程の間に、赤ん坊の命が助かったという喜びしかありませんでした。やまない雨の中へ飛び出し、走り続けていました。

 その娘も、七十過ぎの未亡人となり、私には女のひ孫が三人もいます。アメリカとタイにすむ彼女たちは英語育ちなので、私は対話が出来ません。

 どの子もベッピンで、私の坊主頭を撫でたがります。ヨコオさん、どうやら私は長く生きすぎたようですね。では、また。

週刊朝日  2020年5月1日号