「医師だけでなく、身近な人が病気や今の状態に至ったプロセスを少しずつ一緒にたどり、なぜこうなったのか、どう選択してこうなったのかなど、ゆっくり時間をかけ、その過程を振り返ることで、今の状況を理解し、少しずつ納得していくようになります」

 妻に寄り添う修治さんはある日、思いがけない言葉を聞く。

「もう、(死んでも)いいよね」

 ただ世話をされている心苦しさから発せられた言葉かもしれない。それでもまだ力があるうちにと、留美子さんは願いごとのひとつひとつを弱まる力を振り絞って書き記していった。

 覚悟を決めた修治さん。もっと長く生きてほしいが、苦しんでいる姿をもう見たくもなかった。ある朝、目が覚めると安らかに眠る妻の姿を確かめた。昨年9月のことだ。

「喪失感はすごい。でも、亡くなった人は戻ってこない。自分も今後の生活のこと、自分の死のことについて留美子のように準備をしています」

 修治さんは、そうつぶやいた。最期に至る記録をあらためて開き、来し方を振り返ることがよくある。ときに自問する。

 残された人は、こんな悲しみをどう乗り越えればいいのか。

「家族や愛する人が世を去ることはつらいこと。無理に乗り越える必要なんか、まったくないのです」

 と山崎さん。

「家族や大切な人が亡くなって肉体がなくなっても、その人の精神、その人との思い出など、生きた証しは残された人の心の中に生き続けるのです。それを私たちは『死後生(しごせい)』と呼んでいます。生きた証しは、残された人の力になる」

 長年の経験を踏まえ、山崎さんは語る。

「自分がどんな『死後生』を残せるかを考え、その『死後生』をよりよいものにするため、どう生きるかが問われているのです」

 死は見送った人の心に大きなものをもたらすそうだ。

「病人の世話などで大変な思いをすることは多いでしょう。でも、本人の希望をかなえられたかということや、最期に有意義な時を過ごせたかなど、亡くなった人に接した人の経験は、その後の人生に深い意味をもたらす。最期の日々は亡くなっていく人たちから、残された人への贈り物の時間でもあるのです」

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