でもあの時、ヨコオさんは寂庵の近所に来なくて、ホントによかったのよ。あれ以来、ご近所の家では、たてつづけにご家族が次々亡くなって、一軒で六人も亡くなった家もあります。

 寂庵を建てる時、土地の整備をした工事の人の話では、庵の土地を掘れば、シャレコウベが続々出てきたといいました。ここいらは、平安の昔は死体捨場だったのです。今も寂庵のつづきはどこかの寺の墓場です。私が無事なのは、出家して尼さんになったからだと、美輪さんが言ったでしょ。美輪さんは、あんな不思議な「神仏?」だから、おっしゃることの九割は信じていいと思います。一割は神仏さまだって外れることはありますよ。

 あれは、私が仏縁で、岩手県の北極にある天台寺の住職に決められた頃でした。東京行の新幹線の中で眠っていて、ふと目を覚ましたら、目の前に結婚式の花嫁のような白いドレスの下半身があり、びっくりして顔をあげたら、美輪さんの艶然(えんぜん)とした微笑が見下していました。「寂聴さん、あなた、天台寺へ行くことになったでしょう。それで観てあげたら、あそこは怖いところで、参道に死体が一杯横たわっているのよ。その中にひときわ上品なお顔の人がいて、さむらいの衣裳(いしょう)をつけているけど、どうも尊い人らしいの」

「その方は、南朝の長慶天皇で、幕府に追われて、吉野から逃れて、天台寺へたどりつき、そこでお亡くなりになるまでいらしたお方です」と私が言うなり、美輪さんの顔が更に輝き、

「ふうん、それでわかった。あなたの前世は、南朝の長慶天皇のお側(そば)で、こま使いをしていたのよ。それで吉野にもお供してきたの」

 と、のたまわれました。私が天台寺へ行ったのは仏縁ではなく、長慶天皇のご縁なんだそうです。それ以来、天台寺へよく美輪さんの電話がかかり、「今朝また、天皇様のお声が届いたのよ。寂聴が、立派な金の(金塗り)位牌(いはい)をこしらえてくれて、家来たちのまで作り直してくれたけれど、ここへ来て、土地の娘を后(きさき)にしていたので、その后の位牌も作ってやってほしいと、おっしゃったわよ」

 そんな電話がよくあるようになり、ついに美輪さんが、天台寺までお詣(まい)りにいらっしゃって下さいました。三宅一生の金色のドレスを着た美輪さんは、生きた観音様のようで、参詣者はうっとりして、拝み、中には泣きだす人もいました。それ以来、美輪さんと私の仲はいっそう親しくなりました。人の縁って不思議ね。では、また。くれぐれも風邪をひかないようにね。奥さまにおよろしく!

週刊朝日  2020年1月31日号