だが、順風満帆とはいかない。16年のリオデジャネイロ五輪出場への期待が高まるなか、相次ぐけがに見舞われた。この年の6月には太もも裏の肉離れを発症して長期離脱。五輪出場の夢はついえた。

「もっと速く走りたい」

 そんな純粋な思いから、卒業後はフロリダ大へ留学することを決心。練習環境が整い、多くの五輪メダリストが輩出する名門で成長したいと考えたからだった。

 19年12月に米国から1週間ほど帰国したサニブラウンは、言った。

「留学して本当によかったと思っている。最高の環境で世界トップレベルの選手たちと一緒に練習できて毎日が刺激的」

 そして、続けた。

「日本の若い選手は、失敗を恐れずにどんどん海外に行って挑戦してほしい。失敗しても、まだ若いんだからやり直せばいいと思っている」

 11月には、

「挑戦できる環境に身を置きたい」

 とプロに転向することを表明した。練習は変わらずにフロリダ大で続けるが、プロになることで世界の各大会に出場しやすくなるためだ。

「このままじゃ、だめ」

 そう言って次々と新しい道を切り開くのは、9秒58の世界記録を本気で狙うと同時に、次世代へのメッセージでもある。

 19年の年末、日本陸上競技連盟が男子400メートルリレーの代表選考基準を「個人種目は原則として1種目のみとする」との選考要項を提案したとき、

「僕は100メートルと200メートルの両種目でメダルを取るために練習をしている。リレーは正直に言うと、二の次でしかない」

 と反対した。それほど、「人生で一番の大舞台」に向けて誰よりも取り組んできた自負がある。

 五輪で一番の花形競技といえる男子100メートルで決勝に進めば、「暁の超特急」と言われた吉岡隆徳が6位に入った1932年ロサンゼルス五輪以来、88年ぶりとなる。

「自分の弱いところを克服して、しっかり結果を出したい」

 8月の夜、一途に突っ走ってきた先駆者が重たい扉をこじ開けてくれるのか。

週刊朝日  2020年1月24日号