筑波大の弘山勉監督=撮影・大崎百紀
筑波大の弘山勉監督=撮影・大崎百紀
筑波(TSUKUBA)の「T」サインを作っておどける筑波大の選手と弘山勉監督(後列左端)=撮影・大崎百紀
筑波(TSUKUBA)の「T」サインを作っておどける筑波大の選手と弘山勉監督(後列左端)=撮影・大崎百紀
予選会のレース後、選手と抱き合う筑波大の弘山勉監督(C)朝日新聞社
予選会のレース後、選手と抱き合う筑波大の弘山勉監督(C)朝日新聞社

 1920年の第1回大会から100周年を迎える第96回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)に、初代王者の筑波大が26年にぶりに戻ってくる。大会創設に奔走した日本初の五輪選手の一人、金栗四三の母校(当時は東京高等師範学校)でもある。2020年1月2、3日、復活の走りを誓う。

「100年目にして、筑波大が箱根駅伝の舞台に戻ることができた。すごい感慨深いものがある。一人のOBとしても純粋にうれしい」

 そう語るのは15年から指導する弘山勉監督(53)だ。19年10月の予選会でチームを6位に導き、上位10校が進める本大会への出場を決めた。

 弘山監督は90年福岡国際マラソンで2位に入るなどの実績の持ち主。引退後は実業団女子を指導してきた。妻は長距離走者として活躍した晴美さんだ。

 チーム復活のため、大学は11年に「箱根駅伝復活プロジェクト」をスタートさせ、クロスカントリーコースなどを整備した。さらに弘山監督は私学に比べて少ない強化資金を補おうと、16年からクラウドファンディングを開始。19年の第4弾は196人から計335万円と予想以上の額が集まったという。

「多くの人に期待されている。これをプレッシャーではなく、箱根を走れるエネルギーに変えられたらと思った」

 選手の意識を変えようと、思ったことは遠慮せずに言った。ただ、一方的に指示するのではなく、選手の自主性に委ねていくことが大事だと考えた。

 成果が出始めたのは、19年春頃だという。

「3年生を中心にチーム改革をしたいという声がありました。ただ、他の学年と差があり、学生だけではやり通すことができませんでした。そこで私がきっかけを与えたんです。『本気でやらないんだったら私が指導する必要ないよね』と」

 監督の思いに応えた一人が、選手をしながら主務を務める上迫彬岳(あきたけ)(3年)だ。LINEで選手から意見を吸い上げ、匿名の資料にまとめて発表した。例えば、「自主性というのは逃げる理由にしかしていない」

「先輩のこういう言動がとてもチームにプラスを与えているとは思えない」

などといった普段は言いづらい意見が集まり、上迫は、

「みんな気づいているけど、気づいていないふりしているよね」

とチームに伝えた。

「ミーティングをきっかけに思いきり話すようになり、チームが勝つために変わりました。(改革が)うまくいかなければ、箱根出場はなかったでしょう」(弘山監督)

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「おおらか」「可愛い」選手たちの弘山監督への感謝の言葉