1981年夏、加藤さんは中国に招かれて公演を開く。引き揚げてから35年たって、両親とともに初めて生まれ故郷を訪れた。

「行くまでは不安でした。どんなふうに迎えられるのか……。でも、まったくの杞憂(きゆう)でしたね。北京空港に降りた瞬間、迎えてくれた中国側の担当者が『お帰りなさい』と言ってくれたんです。中国大陸には、朝鮮族やモンゴル族や満州族など、いろんな民族がいる。ここで生まれた人は、ここの人。私も中国生まれの日本族なんですね」

 母は、最初は行くのを嫌がっていたという。

「変化した街を見たくないと言ってね。だけど、いっしょに行ってくれないと、私が生まれたときのことを自分で理解できない。私のためにいっしょに行ってって頼んだの。自分のルーツに触れられたという意味でも、国や民族って何だろうと考えることができたという意味でも、本当にいい旅でした」

 帰るとき、母の思いは逆転していた。

「帰りたくない、ここに住む、とまで言ったのよ。そう言い出す人は多いみたい。うまく説明できないけれど、そういうことってあるのよ」

 世の中の変化を見つめながら、時代の影響を受けながら、加藤登紀子であり続けてきた。そんな加藤さんが見る「今の時代」とは。

「世の中や時代って、いつだって何らか問題があるものよね。時代がいいから、世の中がいいから、素晴らしく生きられるわけじゃない。どんな時代、どんな世の中でも、素晴らしく生きてきた人はいっぱいいる。ただ、今は激しく揺れ動いているのは確かだと思う」

 そのうえで変わらない姿勢とは?

「流されないように踏ん張って、思うように人生を送ればいいんじゃないかしら。私はそうしてきたし、これからもそうさせてもらうつもり」

 さまざまな経験や出会いが、加藤登紀子の歌声に、厚みと深みを加えている。「若い頃のように、トレーニングなしで歌えるわけじゃない。新しい歌をどんどん作れるわけでもない」

 そんなふうに足元を見つめながら、最近になり、腑(ふ)に落ちることもある。

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