3本目を気に入った中堅の会社からオファーを受けたんですが、グリーンカード(永住権)を申請中でまだ働けなかった。その理不尽さと、ちょうどその頃、親父にがんが見つかり急逝したこともあって、何もかも嫌になって……。

 急に時間が余るようになったので、5歳の息子とプラモデルを作りだしたんです。始めたら自分がはまっちゃって。何をするにも突き詰めてやるタイプ。2004年には全米のコンテストで優勝しました。

――その頃、仕事のうえで大きな転機が訪れた。

 05年にニューヨークに転勤したのを機に、証券業務をやるようになったんです。

 そのすぐ後に、リーマンショックに代表されるサブプライム問題が発生。本当にストレスがたまりました。会社も08年に上場廃止になり、シティグループに買収されました。海外業務は縮小され、日本に帰らないといけない。でもその時点で、アメリカに15年住んでいました。子どももアメリカで生まれましたし。

 今さら帰りたくないと悩んでいた頃、最初にチャレンジした99年に知り合った日本人が、ドリームワークス(スピルバーグ監督らが創業した映画会社)に入ったんです。彼に会社を案内してもらったら、くすぶっていた心に火が点(つ)いて。

 退路を断つ意味で会社を辞めてハリウッドに引っ越しました。45歳のときです。子どもは14歳と9歳。まだまだお金もかかりますが、妻は反対しませんでした。僕が映画の世界に入りたいと一生懸命やっている姿を見てきたし、証券業界の仕事には向いていないと感じていたようです。

――最初の仕事は車のパンフレットをCGで作るもので、1週間の収入は300ドルだった。小さな広告の仕事をした後で、映画製作会社から依頼を受け「エルム街の悪夢」を、さらに「アイアンマン3」を担当した。

 その頃、業界に異変が起きました。カナダやイギリスが国を挙げてハリウッドのVFXの仕事を誘致したんです。コストの問題で、アメリカの会社はどんどん倒産。ただし高度な仕事ができるILM(ルーカス監督が創設した特殊効果などの制作会社)は残ったんです。

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